2021-08-10

オーソン・ウェルズの『審判』をDVDで観た。普通に観ると、けっこう原作に忠実だと思うかもしれないが、カフカの小説を読んだ直後に観たので、むしろ違いの方を強く感じた。出来事の流れというか、話の展開の仕方は基本的に小説の展開に従っている。でもそれによって、(特に後半)ダイジェスト版的な感じになってしまったと思う。原作に忠実といっても、全ての場面を描くわけではないし、カフカ特有の長セリフは要約せざるを得ないのだから。

(舞台設定としては、20世紀初頭のプラハではなく、映画がつくられた現在---1960年代---の、ヨーロッパのどこかの場所、に変更されている。)

この映画は、カフカがどうこうというより、オーソン・ウェルズの空間構築の素晴らしさをひたすら賞賛すべき映画だと思う。冒頭のヨーゼフ・Kの部屋というか、グルーバッハ夫人の下宿の一連の場面は特に素晴らしいと思ったし、また、脚の悪いビュルストナーの友人(モンターク)が重い荷物を引きずりながら下宿を出ていく場面(これは原作にはない、というか、原作では---Kを警戒する---ビュルストナーがモンタークを自分の部屋へ引っ越しさせて一緒に住もうとするので、原作と逆向きのエピソード)などはまるでジャ・ジャンクーの映画ようで、とても斬新だ思った。

ウェルズとカフカの違いの一つ目は、ウェルズは伏線を張るということ。たとえば、カフカの小説では、(男たちが鞭打たれる)職場の階段の下にある物置部屋の存在をKは事前には知らなくて(自分の職場なのに)、いきなり、今まではなかったはずのそこに、そんな部屋があることを発見するのだが(カフカにおいて出来事は常に「いきなり」起きる)、ウェルズの映画では、男たちが鞭打たれる場面よりも前に、Kが誕生日にプレゼントされたケーキを物置部屋に置きに行く場面がある。そこにそのような空間があることが予め観客に示される。

(とはいえ---これは勿論原作にはないのだが---そんなところにあるはずのない巨大なコンピューターが、伏線もなくいきなりあらわれたりはする。)

二つ目の違い。カフカの小説では、Kが終幕(二人の男に殺される)に向かって徐々に追い詰められていくという感じはない。追い詰められていると言えば最初からずっと追い詰められているし、終始調子は一定していて、追い詰められ度合いや緊張が終盤に向かって特に高まったりはしない。そもそも、始まりと終わり以外は、どの章から読んでもいいような小説なのだ。しかし、ウェルズは、終幕に向けてKが徐々に抜き差しならないところへ追込まれていくように演出している。まあ、徐々にというより、終盤近くの、画家のエピソードと聖堂のエピソードのところで、急激に追込んでいく、と言った方がいいか。だからこれらの場面は、無理矢理クライマックスとして盛り上げようとすることで、原作の場面とはかなり違った調子になっている。

三つ目の違いは「掟の門」の扱いだろう。カフカの小説で「掟の門」は、聖堂の僧が、そこから、解釈という行為のパロディであるかのような、カフカ的な特異なロジックに基づく細かな解釈を延々と展開させるための素材のようなもので、「掟の門」のエピソード自体が特に特別な意味をもつわけではない。むしろ、意味ありげな「掟の門」の「ありげ」部分が解釈によって解体されていくという傾向がある。しかしウェルズの映画では、「掟の門」を、『審判』という作品を象徴するような、作品世界の上位にあるメタテキストとして位置づけている。まさに、「掟の門」が『審判』という世界の「法」であるかのように扱われ、ウェルズ自身が演じる弁護士によって、Kに向かって最終的な通告が告げられるかのようにして、「掟の門」の話が語られる。勿論、カフカの小説でこの「弁護士」は、何人も登場する裁判の関係者のうちの一人でしかなく、彼らはすべて下級の関係者で、誰一人として判決にかんする決定権などもってはいない(彼らはただ、それぞれの領域で「事情通」であるに過ぎない)はずだが、ウェルズは自分自身が演じる人物を、本来の役割りから逸脱させて、特権的な法を告げる者にしてしまっている。

この三つ目の違いが、特にカフカに対する決定的な裏切りになってしまっているように思う。