2021-03-01

●リモート版「保坂和志の小説的思考塾 2nd」を昨日観た。以下は、感想であって要約ではありません(とはいえ、保坂さんの発言が曖昧に混ざっているので、オリジナルというのでもない)。

精神分析が、転移と逆転移によって成り立つのであれば、患者と分析家が互いを映し合う合わせ鏡のような存在となることによって分析が進行する。分析家は、(メタレベルに立つ)知の所有者でも(自らを主張しない)透明な媒介者でもなく、固有の色をもつ一人の人として、別の固有性をもつ患者の前に立ち、二人は相互に影響を与え合う。分析家の技量は、上位の階層から安定した技術を用いて患者を導くという風に発揮されるのではなく、同等の位置にいる相手と自分の相互の変化を通じて、患者が自ら治療するように導くことによって発揮される。この場合、分析家もまた変化することは避けられない。「再帰性」という語を使って保坂さんが言いたいのは、おそらくそういうことだろうと思う。

作者は、自分が書いてしまった文によって自らを否応なく変化させる。あるいは、カフカは不安を描いたのではなく、カフカの文章が読者の不安を惹起させる。このような相互作用的な出来事を「再帰性」と呼ぶ。このように語る保坂さんをみて、ずいぶん前に保坂さんから直接聞いた話を思い出す。初期の作品は、しばしば「性的なものが描かれていない」と評されたが、性的なものが描かれない小説など他にもあるのに、自分の小説を読んでことさら「性的なものが描かれていない」と感じた(意識した)ということは、その人のもつ性的な何かが惹起されたということで、つまり明示的に描かれていないとしてもそこには「性的なもの」がちゃんとあったのだ、と。

(ガルシア=マルケスは「カフカに小説の書き方の自由を教わった」と言っている。生真面目な人には不安を惹起させるカフカの文は、ガルシア=マルケスには自由を感じさせた。だが、カフカから影響を受けたというガルシア=マルケスの文は、あまり人に不安を惹起させない。ここに、個々のキャラクターの違いがあらわれる。この指摘からも、書くことも読むことも、自分自身の固有性を通して---自分自身の変化を通して---行うしかないということが意識される。)

●日常的思考様式は「文学」によってつくられている。自分がそのように書いてしまったことによって、自分はそう考えていると思ってしまう。この文には二つの異なる意味があると思う。自分が「そのように書けた」こと(表現の獲得)によって自分自身の「思考の様式」が更新されていくという側面と、今まで読んできた様々な文章によってすり込まれた「思考の様式」に従って書いてしまったことで、自分もそのように感じていると思ってしまうという側面。後者は、既にすり込まれた思考や言葉の形によって言葉が再生産されているということだが、前者では、言葉や思考の形がそれ以外の何か(現実・身体・死など)とぶつかることによって変質を受けるということを通じてあらわれるものだと思われる。

日常的、社会的な場面では後者が求められるのだが、自分自身を支えるため、あるいは良い生を生きるためには、前者が必要だろうと思う。

おそらく「文学」には、自分のこころに言葉によって固定的な形を与えてしまうことを促すという側面(後者)と、それを拒否するための助け(糧)になるという側面(前者)の両方があるように思う。

●「宗教的な言葉(論理)」について。日常や社会的な妥当性の範囲内で通用する論理や表現では、たとえば「死」に直面した人を支えられない(せいぜい「くよくよしないで前を見よう」みたいなことしか言えない)。自分が崩れずにいられるか否かという瀬戸際の状態にある人を支える論理(表現)は、日常的なものではありえない。より練られ、考え抜かれた宗教の言葉(論理)は、いっけん非論理的にみえたとしても、それを支え得るように思われるものが含まれている。

芸術や哲学が贅沢品ではなく(余裕のない)必須のものだというのも、そういうことだと思う。

●あと、シェリングを引きつつ「主語が述語を規定する」という話をしているところで、キース・リチャーズが「なぜ自分はロックをやっているのか」と問うため古いブルースを沢山聴いたという話がでてくる(日常的な「なぜ」ではない別の「なぜ」について)。ここで、大瀧詠一がエルヴィスとビートルズについて言っていたことを思い出した。

エルヴィスもビートルズも、エルヴィスとして、ビートルズとして頭角を現す前に、膨大な数のアメリカンミュージックをカヴァーしている。エルヴィスは、古いブルース、リズムアンドブルース、カントリーなどまでカヴァーしている。それら、アメリカの大衆音楽の膨大な支流の総体がエルヴィスの元へシュワーと収束していって大河となったのが56年の「ハートブレイクホテル」だ、と。そしてビートルズもまた、(エルヴィス以後のではなく)エルヴィス以前のアメリカのロックの源流となる曲を沢山カヴァーしている。エルヴィス以降のソフトになったアメリカのポップミュージックに対して「ロックンロールを思い出せ」という方向だった。エルヴィスができるまでの「原料」を自分たちの音楽をつくるための糧として探そうとした。そして、エルヴィスとビートルズは他の人に比べてカヴァーの選曲がよい、と。全方位の曲をカヴァーしていて、カヴァーを聴くだけでアメリカ音楽の歴史が分かるようになっている。

(ジョン・レノンは40年生まれなので「ハートブレイクホテル」の時には16歳だった。)

ブリティッシュロックを聴いてブリティッシュロックのような音楽を作ろうとした日本のバンドとは違って、ビートルズストーンズやクラプトンやベックは、エルヴィスに衝撃を受けて、エルヴィス以前(エルヴィスの原料となったもの)に戻って、そこに学ぶことからブリティッシュロックをつくったのだ、と。だから、アメリカンロックの源流を探らないと日本のロックはつくれないというのが我々(はっぴいえんど)のテーマだった、と。

(話の軸がずれてしまったか…。それに保坂さんは「はっぴいえんど」をきっとあまり好きではないだろう。)

出典は下の動画から。

'03 Special Musician Series 坂本龍一 講師 大瀧詠一さん

https://www.youtube.com/watch?v=S4cg9x74vX8

●驚くべきことに、「死とは無である、というときの死はただの記号にすぎない」という保坂さんのエッセイの部分が、中学入試の試験問題に出題されたという。小学六年の子供に、この文から何を読み取らせようとしているのか。逆に言えば、この問題に適切に答えられるような子供は、たんに試験問題(出題意図)に対して忖度しているだけということになる。この問題が解答者に求める読解力は忖度でしかない。「忖度としての読解力」から解放されなければならない。