2021-09-24

●お知らせ。10月11日発売の「早稲田文学 2021年秋号」に、小説「ライオンは寝ている」が掲載されます。「群像」2013年8月号に載った「グリーンスリーブス・レッドシューズ」以来、八年ぶりの小説です。

(特集の「ホラーのリアリティ」がとても面白そうで、よい号に載せてもらったと思う。)

http://www.bungaku.net/wasebun/magazine/

カフカの断片「中庭への扉を叩く」(柴田翔・訳)は次のようにはじまる。

《それは夏の暑い日だった。妹と一緒に家へ帰る途中、あるお屋敷の中庭の戸口の前を通りかかった。思い上がった悪ふざけだったのか、ただ放心してぼんやりしていたせいなのか、よく判らないのだが、妹がその扉を叩いた。いや、ただ脅す真似のつもりで拳を振り上げただけで、ぜんぜん叩いてなどいなかったのかも知れない。そこからあと百歩ばかり行くと、左へカーブして行く国道沿いに村が始まっていて、私たちの知らない村だったが、もうその最初の一軒から土地の人々が出てくると、こちらに視線を送ってきた。それはむしろ好意的な視線ではあったのだが、一種の警告でもあり、彼ら自身が衝撃を受けて、恐怖から身を屈めてさえいるのだ。村人たちがいま通りすぎてきたお屋敷のほうを指さすので、否応なしにその扉を叩いたことを思い出した。屋敷の所有者たちが私たちを告発するだろう、すぐに捜査が始まるだろう。 そう彼らは言う。》

最初に、《妹》の心のほんの小さな揺らぎ、行為にまで至らなかったかもしれない、悪意とも言えないくらいのちょっとした悪ふざけ的な気持ちの惹起がある。《妹》は、扉を叩いたのかもしれないし、叩かなかったのかもしれないが、何かしらの気持ちの動きがあった。この小さな揺らぎはまず、《私》によって察知される。《妹》から発せられた揺らぎは《私》に伝わり、《私》はそこで、ごくごく僅かではあろうが、そこに悪意の萌芽のようなものを感じ、ごくごく僅かながらも、禍事の予感のようなものが生じる。とはいえそれは、それを感じた本人にすら意識されないくらいの小さな波で、すぐさま忘れられるくらいのものだろう。

しかしここで重要なのは、とても僅かなものであったにもかかわらず、《妹》に生じた揺らぎが《私》に伝わってしまったということで、それが《私》に伝わるのならば、もっと広く、別の人々に伝わってしまわないという保証はない。この小さな可能性、小さな悪い予感が、カフカにおいては急速に拡大される。むしろ、それが取るに足らない小さいことであるからこそ、見逃されることがないのだとでもいうかのように。あったかなかったかさえ定かでない、あったとしても誰にも見られていないはずの行為、《妹》と《私》の心のなかだけで起ったにすぎないはずの小さな揺らぎが、知らぬ間に伝わっていて、既に、土地の人たちの間では共通の了解となるまで広まってしまっている。

土地の人たちが「視線」を送ってくる。《それはむしろ好意的な視線ではあったのだが、一種の警告でもあり、彼ら自身が衝撃を受けて、恐怖から身を縮めてさえいるのだ》。ごくごく小さな邪気にすぎないはずのものが敏感に察知されてしまう。そしてそれは「私」や「妹」には知らされていない未知の「掟」に背き、とても重大な禁忌に触れてしまうものだったようなのだ。土地の人たちは、《私》や《妹》がよそ者で、その掟や禁忌を知らず、破ろうなどと意識しなうちに掟を破ってしまったと知っているのだろう。そして彼らも、その掟に強く抑圧されているのだろう。おそらく《好意的な視線》はそこからくる。だが同時に、その禁忌に触れることの恐ろしさを知っているからこそ《彼ら自身が衝撃を受けて、恐怖から身を縮めてさえいる》。

ごくごく小さな悪意の惹起と、その悪意とセットになって生じているであろう、ごくごく小さな罪悪感。罪悪感には、この悪意が人に伝わってしまうことへの恐怖も含まれるだろう。ここでは因果が逆転していて、あたかもこの罪悪感こそが「それによって破られる掟」を事後的に生成し、それによって触れられる禁忌を後からつくりだしてしまうかように、物事が進展する。さらにここで重要なのは、この「悪意」の出所が自分ではなく《妹》であることだろう。自分由来ではない、自分ではどうすることも出来ない悪意が《私》を脅かす。とはいえ、出所は《妹》であり、庇護すべき存在なのだから、他人に責任を押しつけて自分だけ逃げるわけにはいかない。《私》はこの事態を引き受け、《妹》を保護しなければならない。ここにはちょっとした虚栄心の作動もみられるだろう。