●来月出る文芸誌に『蜩の声』(古井由吉)の書評を書いたのだが、原稿用紙にして三枚程度の短いものだったので、入り切らなかったことをちょっと書く。
古井由吉の小説では、「何か動くものの影が見えた、よく見るとそれは自分の背中だった」という視線と、「背中に視線を感じて振り返ると、そこにあるのは自分の顔だった」という視線が交差しているように思われる。これを、自分を見ている自分と、自分に見られている自分という二項としてみれば、メタレベルとオブジェクトレベルという風に階層化されるが、古井由吉においてはそういう風にはなっていなくて、二つの視線は同一平面上にあって循環している。光速よりやや遅い速さで地球を一周すると、目の前に自分の背中が見える、というような感じ。しかしこの二つの視線が交錯するには、間に「振り返る」というねじれが必要となる。このねじれは多くの場合、眠りや身体の不調による認識の揺らぎがつくりだす、時空の歪みとして作中にあらわれる。
自分1から発せられて自分2に着地する視線と、自分2から発せられて自分1へと着地する視線の循環は、半ば自己同一的であるとともに、自分1と自分2との差異によって半ばそうではない。この、半分の他性が、自己循環的な運動のなかに、時間や空間や他者を巻き込んでゆく。自分を見ていた視線がいつのまにか他人を見ていた、あるいは、他人を見ていた視線がいつのまにか自分を見ていた。自己から発して自己へと至る循環運動のなかに他性が絡まるようにして巻き込まれてゆくというのが、古井由吉の小説の基本構造であるように思う。
では、この循環を動かしている動力は何か。それはおそらく作品に繰り返し召喚される空襲の記憶であろう。あるいは空襲そのものの記憶というより、その後にぽっかりと現れた寄る辺ない空白の感触と言うべきだろうか。自分が見ている影はこの空白のなかにあり、自分の背中を見ている視線はこの空白の方からやってくる。空白に吸い込まれるようにして動いてゆく循環運動が、結果として様々な「他」を巻き込んでゆく。
その時、半分自分であり半分他人である影を見つめる視線の主体もまた、半分自分であり半分他人であるものとなり、半分自分であり半分他人である視線から見られている背中もまた、半分自分であり半分他人であるものの身体となるだろう。
●『蜩の声』のなかで、このような、半分自分であり半分他人である視線の循環運動そのものを最も凝集的にあらわす形象がおそらく二つある。
一つが、「尋ね人」にあらわれる、《女人のよう》でありながら性別もはっきりせず、見ず知らずのようで、知り合いのようで、さらに自分自身のようでさえある《無縁》の「顔」であろう。この「顔」がしきりに浮かんでくると語られる人物が、語り手と同じ病気を、語り手より十年後に発症させた男とされているところもまた、半分自分、半分他人的な性格があらわれている。この「顔」は、空襲の時一人で逃げていた女や、空襲の後に握り飯を恵んでくれた女などを連想させ、性別がはっきりしないとされながらも女性性を強く帯びている。このことは、最終章である「子供の行方」において、背中にあたる陽(背中に感じる視線)のあたたかい心地よさが《乳母のふところ》と表現されている点と響き、この「顔=視線」のなかには、捉えがたい空白の不気味さだけでなく、同時に母性的な懐かしさや温かさが宿されていることを示す。
自分が見ている影であると同時に自分の背中を見ている視線でもある、性別がはっきりしないながらも女性性を強く帯びた「顔」こそが、本作を通じてあらわれているライトモチーフだと言えよう。しかしそれが最終章ではひっくり返る。そのもう一つの形象が、一人の寄る辺ない「子供」の姿である。この子供は、空襲で焼け出された自分自身のイメージを出発点としながらも、自身の娘や孫へと繋がり、そこかももっと普遍的な「子供」という概念そのものにまでひろがってゆく。
では、女性性の濃厚な「顔」から、普遍的な「子供」へのライトモチーフイメージの転換はどのようにして起こったのか。「顔」が召喚するイメージの一つに、空襲の後の寄る辺ない時に握り飯をくれた女性の姿があることを想起されたい。そこには寄る辺ない「子供」を導こうとする強い意志が感じられる。そして、「子供」のイメージがそもそも、焼け落ちた自宅の跡を棒の先でかき回している自分(ここは語り手=作者と考えてよいだろうと思う)であることを考え合わせれば、ここで「見る、かつ、見られる(半主体、というか、どちらかというと主体寄り)」と「見られる、かつ、見る(半客体、というか、どちらかというと客体寄り)」との位置が転換されたのだと分かる。
半ば自分であり半ば他人である「子供」が、半ば他人であり半ば自分である「女の顔」を見ていて、また、「女の顔」から見られていたという構図が、半ば自分であり半ば他人である「女の顔(これは半ば空であり、半ば母でもある)」が、半ば他人であり半ば自分である「子供」を見ていて、また「子供」から見られている、という構図に転換したのだと考えられる。つまりこの小説の足場(というか、どちらかというと「こっちが主体寄り」と言えるであろう位置)が移行した(というより、裏返った)のだ。全体としてどちらかというと受動的であった視点が、どちらかというと僅かに能動的とも言える主体へと反転した、と。
この転換は最終章で唐突に起こったようにも感じられるが、実は連作二つ目の「明後日になれば」の老婆と子供の関係、七つ目の「枯木の林」の女性視点などによって準備されていたものの全面展開だとも言える。しかし勿論、半ば自分であり半ば他人であるものの循環であり、それがどちらも、半ば主体であり半ば客体であることはかわらない。そもそも、だからこそ裏返りが可能であった。