●『一一一一一』(福永信)。この本も書評を書くので簡単な感想だけざっくりと。ぼくはこの本を「ええ」が何回出てきて、「そうですね」が何回出てきて、という風に「受け」側の答えのすべてを「正」の字を書いて数えながら読んだ。あと、数字が含まれる単語をすべてページの余白に書きだした(「一目瞭然」とか「唯一無二」とか「三角関係」とか)。
結論だけを書くと、この小説は「妊娠(懐胎)」をめぐる小説だと思った(「ウバメガシ」は姥目樫であるが、ウバは乳母とも書けるし、ウバメは産女(ウブメ)に音が似ている)。前作が子供たちの話であるとすれば、今作は、新たな存在としての子供たちが生まれてくるための環境の話であり、その環境が熟するまでの待機の時間の話である(この小説の特徴である「迂回」はまさに誕生を可能にするための「待機」の時間であり、その時間のなかには様々な危機が含まれている)、と。だから妊娠(懐胎)とは、母の問題だけではなく父の問題でもある。可能性としての「子」を孕む家族の話と言い換えるべきか。この小説が、「一」と「二」と「三」(ワンカップ大関・ニット帽・サンダル)の小説であるということは、母と父と子の小説であるということだと思う。そして妖精であり精霊であるもう一つの「一」(犬・ワン・ワンボックスカー)の存在も忘れてはならない。子供の誕生(の可能性)は輪廻転生(サイクル・リサイクル)としてあらわされるが、しかし実は、誕生するのは子供だけでなく、母や父もそれと共に誕生し、何度も誕生し直す。
この小説の最終章は、延々とつづく迂回の時間(危機を含む待機の時間であるとともに「リサイクル-書き直し」の時間でもある)のなかで(逆『ロスト・ハイウェイ』のように)「人格の入れ替わり」が果たされることで「父」が誕生する過程が描かれていると言っていいと思う。だが、父が誕生したからと言って楽観はできない。子供の危険は去ったわけではなく、様々なヤバイ徴候を残したままで小説は閉じられる。そのような意味では、これは(誕生より前にあらかじめ張り巡らされた)子供たちの危機についての小説でもあろう。
●どの作品も初出の雑誌掲載時に読んでいたけど、すべて書き直され、新たな一つの作品として再配置されていた。
ぼくは以前書いた福永信論(『人はある日とつぜん小説家になる』所収)のなかで、福永信の作品には「中学生以上」の系列と「小学生以下」の系列の二つの傾向があると書いていて、初出時ではこのシリーズは「中学生以上」の系列である傾向が強いと感じていたのだが、本になったものには、このような二項への分類という構えそのものを超えてそれを無意味にするような、この作家の新たな様相があらわれていると思った。
(初出時の「問いかける側」から感じられ、他の中学生以上の系列の作品からも濃厚に感じられる「策略」の気配が希薄となり、それがたんに「危機」の気配へと変化している。「策略」には策を弄する主体の隠された悪意が想定されるが、「危機」は世界のなかにあるもので、そのような主体の悪意には収斂されない。)