●『輪るピングドラム』第22話。
●時籠が日記の半分を苹果に返した。また、夏芽が冠葉をかばうために死んだということになれば、苹果は、日記の残りの半分も手にすることになるのではないか。「自分を消して桃果を反復する」という過程を経て自分自身を発見することで、真の意味での桃果の継承者としての資格を得た(ここには二重の飛躍=捻じれがある)と考えられる苹果のもとへ、日記が再び、しかしその意味が更新された形で戻って来る。苹果にとってはもう、日記に書かれていること(内容)に意味はなくなっている。日記が彼女に戻されるということは、苹果が桃果の継承者となるということであり、そのように行動するということなのではないだろうか。
●さらに、EDの後の短い断片によって、次回にはとうとう晶馬が覚醒するであろうことが告げられた。
●作品の主軸は再び、苹果と晶馬というペアに移されるのではないだろうか。
●「ピングドラム」の物語は、陽毬の死が保留されるというものであった。冒頭で亡くなった陽毬の死が、まずペンギン帽の力によって、次にサネトシのクスリによって延期され、さらなる延期の代償としてサネトシの「呪い」を受け入れようとする。この間、延期のための代償はすべて冠葉が負っていた。しかしこの事実は、物語の表面にではなく裏にあり、つまり、陽毬の死の保留は「ピングドラム」という物語を支える基底的な条件であった。物語の表には、苹果による桃果反復の過程(捕らわれていた家族関係からの自立)があり、それを通じた苹果と高倉家の三人の関係とその推移があった。もし陽毬の死が保留されていなかったとしたら、苹果の「桃果反復過程(プロジェクトM)」における高倉家(特に晶馬)の関与はなかったことになり、苹果が晶馬を発見して桃果の呪いから逃れ、(苹果自身として)桃果の継承者たる者とはなり得なかったかもしれない。
だから、「ピングドラム」における(言い方は悪いけど)陽毬の死の保留の「効果」は、苹果が桃果の継承者たりえる者となったことにこそある。そして、それは冠葉の力に依っていることになる。冠葉が自らを犠牲にして陽毬の死の延期を実現していなければ、苹果は(苹果自身として)桃果に至ることが出来なかった。しかしそれは、冠葉がサネトシの呪いに染まる過程の後押しとなってしまってもいる。だとすれば苹果のすべきことはただ一つであるはずで、それは、サネトシの呪いのよって16年前を反復しようとする冠葉の行動を、16年前の桃果の反復として阻止するということになるのではないか。呪いとは別の反復によって。
●この作品で苹果と陽毬は(ウテナとアンシーがそうであったように)ヒロインの表と裏であり、冠葉の行動への阻止には陽毬も何かしらの形で絡むのではないか。そして晶馬の出方はまだ何も分からない。
●この作品では、あらゆる登場人物に一定の厚みと重要性が付与され、互いの関係も緊密であり、作品の流れとして主軸であると思われた「線」が何度も転換されるなど、ほとんどすべての登場人物の同等な絡み合いによって作品が形作られている。
しかし一方で、主要な登場人物でなければその顔さえも描かれない。群衆は記号的に処理され、学校の同級生、週刊誌の記者、警察官などは、声や後ろ姿、あるいは手のみとして表現される。テロ組織のメンバーも、ほとんど同じカラスのようなコートの男たちの集団でしかない。つまり一定のフレーム内では非常に明確なイメージや緊密な関係が成立しているが、その範囲が狭く、その外へと延びるネットワークがない。フレームの外はすべて抽象的であり、テロ組織のあり様も、それを追う記者や警察のあり様も、ディテールがあやふやで、なんとなくぼんやりあるだけであり、だから、こどもブロイラーというものの輪郭(公的な機関なのか犯罪的な組織なのかそれともたんに「愛されない子供」の比喩なのか…)もよく分からない。
そのような世界の狭さは、忠実に再現された荻窪や池袋の風景のなかに多量のペンギンマークを配置したり、リアルな風景と、夏芽家や病院など突飛な風景を混在させたりなどと同じく、この作品の大きな特徴ではある(具体的な荻窪の風景のなかにあの高倉家の建物を配置したという一点だけをみても、この作品がいかにとびぬけたものであるか分かる)。何より、この世界の狭さは、作品の中盤に現われた「東京スカイメトロ」の存在によって、内側から底が抜かれ、フィクションの存立する位相そのものを揺るがした、その下地となっている。あたかも、丸の内線沿線だけが世界のすべてであるかのような世界設定と、この作品のリアリティは緊密に結びついている。
とはいえ、終盤になって物語が展開しはじめると、テロ組織や警察組織のあまりの抽象性(というか、あやふやな描写)が、やや弱点にも感じられるようになってきているようにも思う(警察はまさに、たんに「奴ら」でしかない)。いや勿論、この作品の主眼はテロ組織のあり様を具体的に描き出すこと(オウム批判のようなこと)でないのはここまでくれば明らかであり、そこをしっかり描くべきだということを言っているのではない。そうではなくて、最後にもう一つ、「抽象的でありすぎる弱さ」を逆転して強さにしてしまうような(東京スカイメトロのような)装置が仕掛けられていることを期待したいということ。
●この世界の現実から、丸の内線沿線だけを丁寧に切り取ってその外を空白にしてぽっかり宙に浮かせることで、現実的なものと虚構的なものとを直交させるというか、現実そっくりなままで取り出した世界のなかに、明らかに現実離れしたものを散乱させることを可能にする。こういうやり方だと、リアルな現実的スケールと、底の抜けた虚構のスケールを繋げることは上手くゆくのだけど、「丸の内線沿線」から遠い(あるいはそのスケールとは異なる)「現実的なもの」(例えば公安や警察組織、あるいは経済とか)をフィクションのなかに上手くなじませることが難しくなるのだと思う。