●『輪るピングドラム』第21話。
●冠葉が実は夏夏芽家の子供であるという事実、そしてラスト近くでの実の父の言葉(お前じゃ駄目だった)を鵜呑みにするのならば、冠葉には父との関係においてトラウマがあり、そしてそれは、冠葉の実の父と夏目家の祖父との関係を、冠葉の実の父と冠葉の関係が反復しているということでもある。高倉家における冠葉の位置、あるいは陽毬に対する冠葉の関係における過剰に「父」的な振る舞いはここに起因しているとも言える。そして冠葉における、高倉家の父からの承認の(幽霊を呼び出してまでの)反復的確認、さらに、高倉家の父が関わっていたKIGAとのつながりもまた、実の父との関係の失調を「高倉家の父」との関係において代替的に修復しようとしている結果だとも言える。つまり、冠葉の自己犠牲には、冠葉側の事情(彼を把捉している「父」という重力による原因)があり、桃果-苹果的な「飛躍」には至っていないことになる。
●夏芽家の祖父-父の関係が、父-冠葉にも反復されているとすれば、そのような意味でも夏芽家の祖父は未だ「死なない男」でありつづけている。そして、真の意味での「死なない男」とは、サネトシであった。サネトシは、反復され、継承されるネガティブな力だろう。
●冠葉がKIGAから引っ張ってきた金によって、サネトシのクスリを買い、それによって陽毬の死が保留されているとすれば、サネトシこそがKIGAの大元なのだから、冠葉の行動はまさにサネトシの手の内で操られていることになる。
●陽毬が晶馬から(マフラーを媒介として)「選ばれた」のと同様に、冠葉は陽毬から(父の葬式の時に、絆創膏を媒介として)「選ばれた」。しかし同時に、冠葉は高倉家の父からも「選ばれた」。時籠や多蕗が自分を選んでくれた桃果に捕らわれているのと同様に、冠葉はこの二人に捕らわれている。そして冠葉はこの二重の「運命の人」を通じて、サネトシに操られている。
●サネトシと桃果との対立は、世界の変革(「運命」の意味の変革)に対する異なるやり方の対立ということになろう。それは「ウテナ」において、永遠を獲得するための決闘(デュエリストたちとそれを操る暁生)と、その決闘(システム)そのものを否定するウテナ(とアンシーの関係)との対立が、形を変えたものだと言えるだろう。堕落した王子である暁生は、デュエリストたちを操ることで「永遠」を手に入れようとしていた。「ピングドラム」における苹果の変化は、デュエリストが自らをウテナへと変化させてゆく過程であると言える。
●異なる色のトタン、あるいは縫い合わされたヌイグルミによって示される高倉家の捨て子たちの家族は、ある意味ではその後のウテナとアンシーでもあろう。それは、継承され反復する「あらかじめ刻まれてしまっているもの(死なない男)」に対する「新しい関係」による超克(「運命」という言葉の意味の変革)が目指されてのことだったはずだ。そしてその関係は、封印されていたそれぞれの「あらかじめ刻まれてしまっているもの」の露呈によっていったん解体してしまう(サネトシは、あらかじめ刻まれてしまっているものとして露呈する「運命」を世界の変革のために利用しようとするのだ)。しかしそれは必然的な過程であり、「新しい関係」の成立のために一度は通らなければならない道であろう。それは、苹果にとって「不在の桃果の影」を超えるために、桃果の模倣・反復という過程を経ることが必要であったことと同様のことだろう。再び「新たな関係」が見いだされるとすれば(捨て子たちの家族が成立するとすれば)、その時には、運命の人(私を選んでくれた人)との関係が、新たな位相へと移行している必要があるだろう(苹果が晶馬を「発見」したように)。
●勿論、その希望はまだ残されている。実際、「運命の人」との関係をいったん清算した陽毬は、敵対関係にあった夏芽と共に、そのための行動に踏み出そうとしているようだ。ここでも重要なキーになるのは、未だ覚醒していない晶馬の存在ということになろう。
ウテナは、自らを「選んでくれた(運命の人である)」王子様の堕落と裏切りを否定的な媒介として、アンシーとの関係を発見し、創造したのだった。