●シャブロル『悪の華』をDVDで。以下、ネタバレあり。
冒頭というかオープニングで部屋の中でうずくまっている女性が誰なのか、うちの小さなテレビでは分からなかったのだが、あれは、妹でもあり、叔母さんでもあるということで良いのだろうか。この映画は歴史(呪い)は反復するっていう話なのだけど、面白いのは、誰にとって反復なのかと言えば、それは叔母にとってだけ「反復」として現れるというところにあるのではないか。
●ある父と息子がいて、ある母と娘がいて、その父と母が再婚するのだが、父は、再婚する女性の元夫の弟であり(つまりその女性-母は、元義弟と再婚した)、だから息子と娘は、戸籍上では兄と妹となるけど、血のつながり的にはイトコ同士である、という家族。さらに、母の元夫と、父の元妻とは関係があったらしい(二人一緒に事故で亡くなった)。その家族に独身である母方の叔母が同居している。
つまりこの再婚は、母の元夫と父の元妻の事故死によって関係が絶たれてしまう「両家」の関係を維持するためのものということになる。さらに、母の方の一族はかつて対独協力者であり、収容所へ送るユダヤ人のリストさえつくっていたという。同居している叔母の兄は、そのような一族に反抗してレジスタンス運動に身を投じるのだが、一族の父はそれを密告し兄はナチに射殺された。さらに、妹である叔母には、その父の殺害容疑がかけられていた(結果は不起訴になった)。
このような、父、母、兄、妹、叔母に、市長選に出馬する母の選挙参謀である男を加えた六人が、この映画の主な登場人物となる。なんだよそれはっていうドロドロで複雑な設定なのだが、この設定は、母の当選を妨害しようとする「怪文書」によってさらっと説明される。だから、このドロドロ関係はあくまで背景であり、実際に映画が指し示すのは、母と参謀による選挙運動であり、父の女遊びであり、兄と妹の秘密の愛の関係であり、記憶とともに家の内の仕事をする叔母の姿であり、といった、それぞれにバラバラな系列であり、その日常である。彼らは食卓を囲み、食後のコーヒーも共にするのだが、彼らは屋敷という仮止めのフレームに弧かわれているだけで、それぞれが驚くほど無関係である。
●近親間であることから抑制されていた兄と妹の愛情は、故郷を離れていた兄の帰国により禁欲が破られて進展をみせる。そしてその関係に気づくことによって叔母と二人の関係が密になってゆく。この、兄・妹・叔母の共犯関係は、実は、叔母自身が自らの(射殺された)兄を生涯の男性として愛しており、兄・妹の関係に自身とその兄とを投影していることが関係している。だから、過去に生きる叔母と、現在の愛と肉欲のなかにいる兄・妹との共犯関係は、同じもののなかに別のものを見ていることによって成立しており、実は行き違っている。その関係は、夫婦で連れ立ってパーティーに参加しながらも、母は参謀とともに政治的活動をし、父は女あさりをするという風に目的が分離している父母の夫婦関係と、そんなに違うわけではない(母は、父が女目当てであることを知っているが、母の野心にとっては、夫婦一緒にパーティーに出る必要があり、利害の一致によりともに行動する)。
●だが、兄・妹・叔母を結びつけているもう一つの要素があり、それは父への憎悪に近い嫌悪の感情であることが、映画の進行のなかで次第に明らかになる。それは、母を誹謗する怪文書の作成者が実は父ではないかという疑いにまで発展する。確かに、映画の冒頭から父は、息子を迎えにゆくために空港で、出口に近い身障者用の駐車スペースにずうずうしく車を停めていたりなどして、決して尊敬できるような人物としては描かれていなかった。とはいえ、彼はせいぜいこずるくてスケベな、尊敬は出来ないけどどこか憎めない人物であるように観客には見える(とはいえ、肉親に対する感情は、観客のように客観的に割り切れるものではないだろうが)。
●そして父は、義理の娘である妹にちょっかいを出そうとして抵抗にあい、それによって死んでしまう。ここで父の行為は許しがたいとも言えるが、しかし、兄と妹の関係ははっきりと口にはされないとしても公然の秘密のようなもので皆が勘付いていて当然で(家族の前でも過剰にいちゃいちゃしているし、週末には二人だけで別荘に出かけたりするのだからミエミエであろう)、計算高く女好きの父が酔った勢いで、うまくすれば自分も(血のつながりはないのだから)やらせてもらえるんじゃないかと考えたとしても不思議ではない。つまり兄と妹の行為が彼の行動を誘発(刺激)したとも言える(さらに、母の選挙運動への不満や、彼女と参謀との関係に対する嫉妬、疎外感なども加わっているだろう)。一方、妹の方も父(義父)の性質はよく知っているはずだから、もし兄・妹・叔母の共犯関係によって過剰に「父への憎悪」が高まっていなかったとしたら(嫌悪が憎悪にまでなっていなかったら)、父の行為をもうすこし上手くいなすことで拒否することも出来たのではないか。
だからここで「事件」は、ある構造(ドロドロ関係)がもたらす必然によって起きたのでもなく、かといってまったくの偶然として起きたのでもない。兄・妹の関係、兄・妹・叔母間の共犯感情、母の選挙運動というそれぞれ無関係な(互いに無関心である)系列にある出来事が、父と妹という場においてある共鳴を起こしてしまったことによって、事件が起きてしまうのだ。兄・妹の愛情関係、兄・妹・叔母の共犯関係、母の政治的野心、父の女好きやこずるい計算高さ…、これらはそれぞれ独立した別の系列として別々に展開するはずのものだが、それがある瞬間にふっと重なって相互作用してしまう。この映画がここまで提示してきたのは、このような複数の系列の無関心さであった(例えば叔母は、選挙では母には投票しないと宣言する)。だからこれは、悲劇ではあってもサスペンスではないと思う。
●それ自体としては偶然でも必然でもない(偶然でもあり必然でもある)一つの悲劇を、確固たる「必然」に変えてしまおうとするのが、叔母の記憶だ。叔母はかつて、「生涯の男性」である兄を射殺させた父を許せず、殺害したという過去がある。だが叔母は、容疑はかけられたが不起訴となり、自らが殺したという事実を誰にも話さず隠し続けている。この叔母の「記憶(秘密)」が、目の前で起きた事件と過去の事件を同一化させる。反復ではないものを「反復として」立ち上げる。厳密にみれば、抵抗の結果として父が死んでしまったわけだから、意思をもって殺した叔母とは事件の性質はまったく違う。かつて叔母が殺した父は、兄を殺しただけでなく、多くのユダヤ人も殺した大悪人であるが、ここで死んでしまった父は、ずるくて利己的で卑小な人物にすぎない。しかしそのような差異は、叔母の記憶が塗りつぶしてしまう。だからここで叔母が自ら加害者の代役となろうとするのは、別に妹を庇っているということではない。それは彼女を縛っている記憶に従っているということだ。叔母を閉じ込めている「鳥籠」は記憶であって、構造(ドロドロ関係)そのものではないはず。
●父の死は、妻に相手にされず家族からも嫌われていた点で気の毒なところもあるとしても、基本的にはスケベな親父の自業自得であり、ここで叔母が妹を庇うとすれば、むしろその行為によって妹に自分と同じ「呪い」をかぶせてしまうことになる。妹を叔母と同じ位置に閉じ込めるのは叔母(の記憶)であって構造ではない(構造にみえるものは実はバラバラな系列の並立でしかなく、そこで起きた出来事を「反復として読む」ことによって、あたかも構造-呪いがあるかのような効果が生まれる)。
●とはいえ、父の死体を二階へ引っ張り上げようとする叔母と妹が、その階段の途中でふいに爆笑する場面は感動的だ。ここで二人の間に、何かが通じ合ったのだということは確かだと思われる。だがここで何かが共有されたとしたら、それは呪いの共有などではなく、たんに、死体を二階に引き上げるという物理的に困難な行為を共同で行うことによってもたらされた、行為の共有によるものだろう。