2022/10/04

●U-NEXTで『こちらあみ子』(森井勇佑)を観た。とても張り詰めた映画で、緊張しつつ固唾を飲むように観ていたが、ラストになって、ちょっとこれは納得できない、と思ってしまった。最後に海を出してきて、映画として綺麗に終わっていいような話ではないのではないか、と(あみ子は海の近くに住んでいるはずだが、冒頭の学校からの帰り道と、バイクの映る二つのカット以外はフレームに海は入らなかったと思う。つまり「海」はラストまでとってあるわけだが、そういう狙いもちょっと…、と思ってしまった)。

あみ子は今後も、あんな感じで生きていくしかないのだし、だとすれば船の上の「亡霊たち」と、そんなに簡単にサヨナラは出来ないのではないか。一皮剥けて成長しましたみたいなニュアンスになっているが、そもそもあみ子と言う存在のあり方自体が、常識的な意味での「成長」という概念に疑問を呈するものだったのではないか(ラストが「少女が成長する」映画のクリシェになってしまっていて、それは、この映画がそれまでやってきたことを裏切ってしまっているのではないか、と)。

大変な力作であることは間違いないと思うし、ラストが納得できないということをもって作品の質を否定したいということでは全くないのだが、でも、最後の最後で、うーん、と思ってしまった。

あみ子は、登場人物中で最も「弱い」立場にある存在であるが、同時に明らかな「加害者」でもある。母に対し、また、のりくんに対して、あみ子は加害を行なっていると言ってもよいと思われる。可能な限りあみ子に寄り添おうと努力する父も、母に対する加害を止めることのないあみ子を、母から隔離することを考えざるを得なくなる。そして、あみ子には加害の意識も悪意もない。強調すべきだが、あみ子の存在は決して「悪」ではない。あみ子はあみ子として存在しているだけだ。しかしそうだとしても、悪気も悪意もないあみ子の言動によって、母は傷を抉られて病み、のりくんは暴力を爆発させるまで追い込まれる(悪のない加害はあり得る)。のりくんの暴力は肯定できないとしても、あみ子ののりくんへの愛は、のりくんからしたら過剰な負荷以外のものではなく、それによって追い詰められていたことは間違いないだろう。

(のりくんは、あみ子による母への―悪意のない―加害に加担させられてしまってもいるのだ。)

あみ子と周囲の人々との齟齬が、あみ子に好意的な人たちの努力によってでは吸収できないまでに拡大してしまったので、父はやむなくあみ子を社会から隔離するという選択をした。それがこの映画の「大意」で、何も解決していないし、そもそも、あみ子の在り方と周囲との齟齬は、(社会の根本からの変化でもない限りは)「解決」が望めるような問題ではないだろう。

(勿論、あみ子に全く何の変化もない、ということはないだろう。大好きなのりくんからボコボコに「殴られ」、信頼する父から「捨てられた」ことは、彼女の中の何かを大きく動かすことだろう。もしかすると自分は「気持ち悪い」のではないかという問いを発したこともその一例かもしれない。しかしそれは、「こちら側に残る意志を示す」みたいな、分かりやすい「成長」というようなものとはかなり異なっているはずではないかと思う。)

あみ子がずっと悩まされている「幽霊の音」は、彼女の思い込みや幻聴ではなく、「ベランダに鳩が巣を作っていた」という現実的な事柄に由来するものだった、という事の意味は、あみ子が「自分自身をを信じる」ことができるための根拠としてとても重要なことだ。これは、この映画の唯一と言ってもいいような「希望」ではないか。そして、ここに「兄」が絡んでいることはとても大きい(兄たちの乗るバイクの音は、幽霊の音に拮抗する)。「おばけんなてないさ」の唄と共に現れる「亡霊たち」は、リアルな恐怖の対象である「幽霊の音」に対抗するためのイマジナリーな対象であり、あみ子を「守る」側にいる者たちだ。だから、「幽霊の音」が「鳩」だったという事実が明らかになることで恐怖が去れば、「亡霊たち」とはサヨナラできるというのは、一応、筋は通っている、のだが…。

物語の救いは、あみ子の唯一の理解者であり彼女の窮地を救う兄と、あみ子のことを唯一ちゃんと見ている隣の席の坊主頭の少年、そしてあみ子を当然のように受け入れる保険室の医師の存在くらいだろうか。とはいえ、母やのりくんに彼らと同じような寛容さを要求するのは酷であろう。兄以外の二人はいわば部外者であり、ある程度距離が保てることによる寛容さだろうし、そして近親者である兄はあみ子の理解者でいることの重圧から逃れるようにグレるのだ(だが、兄は、グレること=怖い田中先輩となることで、結果として学校の中で異質な存在であるあみ子を―田中先輩の妹という位置を与えるこで―いじめから守る)。

この映画がしていることは、解決不可能な齟齬を、決してあみ子の在り方を否定せず、しかし同時に、善意やきれいごとや「感動」や「共感」でオブラートに包むこともなく(あみ子の加害性をさえはっきりと示し)、価値判断を付与せずにそれ(齟齬)そのものとして示すということだと思われる。あみ子と母との関係が最初から不穏なのは―とはいえ、そこに「不穏さ」を感じているのは一方的に母の方だけだろうが―あみ子が悪いのでも、母の努力不足なのでもなく、ただたんに二人が「相容れない」というだけなのだ、というように。しかし、たんに相容れないとは、どうしようもないということでもあり、相容れない二人は引き離すしかない、と言うのが父の選択だ。

つまり、あみ子は社会や家族から隔離される。この結末は決して軽いものではないと思う。映画のラストを、この重たい事実を「跳ね返す」ものだととるのか、「覆い隠す」ものだととるのか。あみ子は、出来損ないのスキップで、山の奥に入っていき、やがて海に到達する。この「海」とはどのような場所なのか。「亡霊たち」の浮かぶ海は、現実というより心的空間だろう。ここで「亡霊たち」とサヨナラしてしまったら、あみ子は、現実的にも想像的にも孤立してしまうのではないか。あるいは、あみ子は最初から最後まで一貫して「一人きり(で大丈夫)」だということか。「大丈夫じゃ」という言葉を肯定的に聞けないのは、ぼく自身の心の弱さのためかもしれないのだが。

(坊主の少年はあみ子を見ているが、あみ子は坊主の少年を見ていない。唯一、兄とだけは対話が成立し、兄は、あみ子を絶対的な危機から救出するが、常にあみ子の唯一の理解者であり続けることの重圧には耐えられない。そして、あみ子はこの二人からも切り離されてしまった。かなり厳しい状況で、「大丈夫」だとは思えない。)

(半ば冗談だが、兄がバイクに乗って迎えにきてくれる、という荒唐無稽なラストの方がまだ納得できるかも。)