2022/10/03

●U-NEXTで、『あいたくて あいたくて あいたくて』(いまおかしんじ)。夫を失った妻と、妻を失った夫の話ということでは『遠くへ、もっと遠くへ』と同じだが、「遠くへ…」が、二人が出会ってからの話なのに対して、「あいたくて…」は出会うまでの話と言えるか。いや、違うか。「あいたくて…」では「既に出会っている」かつ「未だ出会っていない」という二つの流れが並走している、と言うべきか。

二人(丸純子・浜田学)は、家具職人とその客という立場で既に出会っており、テキスト(メール)を通じて互いの生活や考えのやり取りをしている(二人のテキスト=メールのやり取りの背後には、宮沢賢治のテキストがある)。だがもう一方で、二人はごく近い生活圏で暮らしている(スーパーや川瀬陽太の店を共有している)にもかかわらず、相手のことは全く知らずに過ごしている(知らないまますれ違っている)。

つまり、テキストという次元では、交流があり、それは次第に深まっていくが、他方で、映像(生活の描写)の次元では、二人の生活は交わることなく並走している(壊れてしまった人形の頭と胴体のように分離している)。しかし、映像の次元では、流れが交わっていないかわりに、様々な対称(対照)的な呼応が見られる。男は家具を作り、師匠の仕事は自分の体の中にある、と言う。女はタイ料理を作るが、亡くなった夫の味を再現できずに悩む。夫の死後、娘と二人で住んでいた女は、娘が彼と同棲を始めたことで一人になる。離婚後は一人で住んでいた男の元に、元妻の今彼が転がり込んで二人暮らしになる。男は、突然押しかけてきた元妻と衝動的に性交し、女は、ずっと言い寄ってきていた男と熟慮の末に性交する、など。

二人の関係の接近は、物語として語られるのではなく、一方でテキストの次元での、互いの考えの「交流と深まり」として、他方で、生活を描写する映像の次元では、分離・並行したままでの、出来事の「呼応と響き合い」の密さによって示され、進展する。

二つの並行した流れに最初に通路を作るのは、女の娘(山本愛香)の彼氏(足立英)だ。女側の流れに生じる「女・娘・娘の彼」という三人関係と、男側に生じる「男・妻の今彼・娘の彼」と言う三人関係の、一項(娘の彼)が共有されることで、二つの流れが(一つ間を置く感じで)間接的に合流する。娘の彼(足立英)は、近くにありながら二つの流れとして分離していた「女の部屋」と「男の部屋」との双方に入り込むことができたのだ。このことが、女と男との映像(生活)の次元での出会いを準備する先触れとなる。

(男の元妻の今彼は、元妻から追い出されて男の部屋に身を寄せ、女の娘の彼氏もまた、娘から追い出されて男の部屋に身を寄せる。)

二人の、生活の次元での出会いの直接的なきっかけは、女が、出来ずにずっと悩んでいた「夫の味」の再現に成功したことだ。亡くなった夫の味の「継承」することが出来たことで、夫への責任を果たし(夫の一部を「生かし」)、夫を自分の一部とし、夫の呪縛から解かれた、とも言えるのではないか。

(娘とその彼との関係を危うくし、かつ、後に雨降って地固まる的な展開になったきっかけも、女が夫の「隠し味」を発見するきっかけになったのも、どちらもAVのDVDである、と言うのがちょっと面白い。AVのDVDそのものは、画面には一度も映らないのだが。)

この作品では、二人に直接的な接触がなく、その関係が分離(並行)したままで、ただテキストを通してのみ深まっていくと言うことがとても重要なことだと思われる。映像=生活の次元で様々な呼応はあるとしても、この「分離」こそが、二人を深く結びつけた。「既に出会っている」にもかかわらず「未だ出会っていない」と言う分離期間は、男は元妻との関係に、女は元夫との関係に、何かしらの決着をつけるのに必要な期間であり、そのために「出会っている」かつ「出会っていない」状態がとても有効に作用した。

男は、元妻との「間違った」性交や本妻の今彼との同居によって元妻との関係を精神的に決着し、女は、夫の味の再現(継承)によって夫との関係を精神的に決着する。そのためには、二人が出会っていても上手くいかなかっただろうし、出会っていなくても上手くいかなかっただろう。そのような状態を描き出しているという点で、とても重要な作品であると思う。