2022/02/06

保坂和志「小説的思考塾 vol.6」、テーマは死と再生について。話の本題とはズレるが、保坂さんが平行モンタージュの話をしているのを聞いて、『ほしのこえ』(新海誠)のことを考えていた。

たとえばチェーホフの「学生」で、神学生の若い男が聖金曜日(キリストの受難と死の日=ペテロが三度「イエスを知らない」と言った日)に後家のワシリーサと娘のルケーリヤが焚火をしている場面に出会う。そこで男は、自分をペテロに見立て(《焚火のそばにペテロも立ってあたっていた、今の僕のように》)、ペテロの話をする。すると、《ワシリーサはほほえみを浮かべたまま、いきなりしゃくり上げると、大つぶの、とめどのない涙が、その頬を伝って流れた》、《ルケーリヤのほうは、じっと学生の顔を見つめながら、真っ赤になって、その顔つきは、激しい痛みを堪える人のように、重苦しい、緊張したものになった》。それを見た神学生の男は、《老婆が泣き出したのは(…)ペテロが彼女に身近なものだったからだろう》と思う。《すると喜びが急に胸にこみ上げてきたので、彼は息をつくためにしばらく立ち止まったくらいだった。過去は、と彼は考えた。次から次へと流れ出る事件のまぎれもない連鎖によって現在と結ばれている、と。そして彼には、自分はたった今その鎖の両端を見たのだ---一方の端に触れたら、他の端が揺らいだのだ、という気がした。》

今、ここにいる女たちと、千九百年前のペテロとが、「一方に触れたら他方が揺らぐ」というように繋がっていて敏感に反応しあうという感触(実感)によって神学生は歓喜するのだが、平行モンタージュは2つの場面を並置することで、このような「一方に触れたら他方が揺らぐ」ような繋がりをつくりだす。

ここで、女たちとペテロとの繋がり(揺らぎ)は、神学生という媒介(第三項)によってつくりだされる(彼の存在、彼の話)とも言えるが、そうではなく、女たちとペテロとが触れ合った結果として、神学生という(その繋がりを観測する)「視点」が生じたのだと考えることもできる。というか、後者でなければ、この繋がりは「神学生の主観」ということになってしまう危険がある。

(女たちの時間の系と、ペテロの時間の系というように、異なる時間の系を媒介する、「(物理的な)時間の外にある第三の時間」のことを、エリー・デューリングは「スーパータイム」と言っている。)

ほしのこえ』は大がかりな平行モンタージュが行われている。高校に進学したら同じ部活に入ろうと話し合う仲の良い少年と少女がいる。しかし、異星人との戦いのパイロットに抜擢された少女は地球を離れ、異星人を追ってさらにどんどん離れる。少女は地球の少年にメールを送るのだが、それが届くまでにかかる時間が、最初は数分だったのが、地球との距離が遠くなることで、半年になり、一年になり、八年数ヶ月にまでなる。メールを送信する少女にとっての五ヶ月が、受信する少年にとっては九年になってしまう。メールを送る少女と受け取る少年との時間のずれ(少女は少女のままだが、少年は大人になる)を平行モンタージュが繋いでいる。

(間違いやすいが、これはたんに電波の届く早さが光速なので有限だという話で、相対性理論の話---双子のパラドックスウラシマ効果---ではない。)

しかし、光速を越える情報伝達が出来ないということは、物理的な時空の内部にいる限り、メールを送信する少女と受信する少年とを継起的に(つまり、二人のズレを)観測できる第三者は存在しない。そもそも、ここにあるのはメールの送信→受信という意味的、物語的な継起性であって、物理的時空の継起性ではない。二人の繋がりとズレは、二人(繋がりのない2つの系)を平行モンタージュ的に繋ぐという「編集(あるいは「語り」)」の操作によってはじめて生じる。そしてこの物語のクライマックスは、二人の距離が決定的になるその瞬間に、二人の内省的な語りがぴったりと同期するという出来事だ(新海作品では、別離が決定的になるその瞬間に奇跡的な同期が起ることがよくある)。この同期もまた、物理的時空のなかでは起きようがない。ではここでも、チェーホフの「学生」で起ったような、異なる系の時間が(物理的な時間の外にある媒介的時間によって)繋がることによる「観測者の出現」が起きているのだろうか。

そうではなく、ぼくにはただ「作者の意図」が同期させている、という風にみえてしまう。

ほしのこえ』が、作者の主観(作者の意図)を感じさせてしまうのは、この物語が、異なる2つの系の話ではなくて、少年の側に収束してしまうからではないかと思う。この物語のトリックは、メールを出すのは少女の側だけで、少年はただ受け取るのみだという点にある。ズレを感じているのは少年だけということになってしまう(仮に、宇宙へ出た後の少女を一切描かなかったとしても、少女との日々の回想と、少年が受信するメールの間隔が延びていくだけでこの物語は十分に成り立つ)。だから、いつまでも「少女との過去」を忘れられない少年が、ある時に過去との決別を決意する(=成長する)という一方的な話になってしまう。2つの異なる系は触れる(揺れる)ことなく、(少年の側に収束するので)繋がりを観測する第三項も生じず、少女の系は忘れられる。

(その意味で、三歳年上になった---異なる系の世界のズレを含んだ---ヒロインとの再会=出会い直しまできちんと描いている『君の名は。』はすばらしいと思ったのだった。)

●話がズレすぎた。保坂さんがピタゴラスイッチの話をしていたのもとても重要だと思った。ぼくはピタゴラスイッチは見ていないので、ぼくのイメージと保坂さんの言いたいことがどこまで重なるか分からないが。二次元の平面を、三次元の立体が通過していく様をイメージできるように、三次元の空間を、四次元の物体が通過していくというイメージをもつことができる。そして、このイメージにより、我々の住む三+一次元の時空の出来事が必ずしも「この時空内の因果」に閉じていないかもしれないという可能性を感じることができる。次元の幾何学としては初歩的な段階だが、これによって広がるイメージの余地の大きさはかなりのものだと思う。あるいは、二次元の平面を、三次元の立体の射影と考えることができるように、三次元の空間を、四次元の出来事の射影であると考えることもできる。たとえば下の動画の(全部観ることが望ましいが)6分48秒くらいから、三次元の空間に四次元の形態が通り抜けるさまが示されている。さらに、8分45秒くらいから、四次元の形態を三次元空間へ射影した形が示される。

ルートヴィヒ・シュレフリ Dimensions Ⅲ 第4次元

https://www.youtube.com/watch?v=QjdoTOjR6lg

上の動画のつづき。ルートヴィヒ・シュレフリ Dimensions Ⅳ 第4次元

https://www.youtube.com/watch?v=dHXv1iNTakE

テキスト Dimensions「第3章: 第4次元」

http://www.dimensions-math.org/Dim_CH3_JP.htm

これは数学(幾何学)であって、これと現実(この宇宙)がどうクロスするのか(しないのか)はよく分からないが、このようなイメージをもつことで、「死と再生」という遠大すぎるかにも思えるテーマに対して、具体的なひっかかりをもつことができる(かも知れない)、ということだろう。

(たとえば、四次元的形態が三次元空間内を通過することを原因とする出来事が「この宇宙の現実」としてあったとすると、その出来事は「この宇宙内部の法則や因果関係」とはまったく無関係に、唐突に起るだろう、というイメージをもつことができる。もちろんそれはイメージであって、「数学的な四次元」については既に詳しく調べられているし、数学者は多くのことを知っているはずで、数学的三次元空間に、数学的四次元空間が交差したとしても、そこには謎はないわけだが。)

(エリー・デューリングは、2つの異なる時間、2つの異なるパースペクティブを媒介する(時間の外の)時間として「スーパータイム」を捉えている。そして彼はそのイメージとして、ネッカーキューブの2つの排他的な図の唐突な交替を挙げる。ネッカーキューブの2つの図は、唐突に、前触れもなく、理由もなく、乱暴に、交替するが、スーパータイムもそのように、唐突に、前触れもなく、理由もなく、乱暴に、2つの時間を媒介し、パースペクティブを交替させるのだ、と。ここで、四次元形態が三次元空間を通過するというイメージをもっていると、スーパータイムという概念が呑み込みやすくなるように思う。スーパータイムを、三+一次元の時空の加えられたもう1つの軸(次元)と考えられるのではないか。)

もう少しつづく。