2022/07/05

『告白的女優論』(吉田喜重)。久々に観たが、とても面白かった。性的なオブセッションと、そこから導かれる、人間関係のなかでの「主体の座」の取り合いをめぐる三つのコント、みたいな映画。この日記を検索したら、16年前に観た時の感想があった。

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20060222

今のぼくは、この16年前の感想に、半分同意だが、半分は意見が違った。

以下の部分は、今回観てまったく同じように思った。

《この映画って、こんなに分かりやすく面白かったっけ、という感じ。大映ドラマ並みの大げさな演技をする俳優たちが、俗流精神分析めいた劇を演じているところを、異様なまでに凝ったフレームで切り取っていて、しかも、やたらとテンポがいい。前衛っぽい映画で俳優に大げさな演技をされると、それだけでうんざりしてしまいがちなのだが、(俗っぽいまでの)テンポのよさによって、不思議なくらい抵抗を感じない。こういう書き方はまるで「皮肉」のように響くかもしれないけどそうではない。ダイアローグ(テキスト)によってあらかじめきっちりとつくられた構成(この映画は画面を見ずにセリフだけ聞いていてもお話が分かる)、大げさな演技や大げさなセリフ回しなどは、凝りに凝ったフレームと相まって、映画から徹底的に現実的な風景(リアリズム的なもの)を排除することに貢献している。》

ただ、次のところにちょっと違和感がある。

《つまり実写映画がはからずも「写し込んで」しまう「現実(風景)」を徹底して排除することで、現実的な三次元の空間を出現させないようにしている、ようにぼくには見えた。この映画のフレームの一つ一つは、(陳腐な比喩だが)バラバラに砕けた鏡の破片に映った光景のようで、それを寄せ集めても一つの三次元(現実)的な空間は構成されない。女優は、三次元空間のなかの巾や厚みや重さのある身体としてあるのではなく、ただ増殖するイメージとしてある。そのために、極端なフレームや闇によって空間は潰されなければならないし、大げさな演技によって、人物(身体)は役割に還元され記号化(言語化)されなければならない。(…) (例えば、この映画の浅丘ルリ子の様々なイメージを束ねるのは、浅丘ルリ子の現実的、三次元的に存在する身体ではなくて、浅丘ルリ子という名前であり、女優という役割であるのだ。)この映画には空間もなく、そこから風が入って来る窓のようなものもなく、平板でとても息苦しいが、それを徹底させることで、異様な「何か」を出現させることに成功していると思う。 (…)そして、現実から切り離されて浮遊したイメージを、再び束ね、組み立てるのは、この映画では「言語的な秩序」であるように思えた。》

まあ、ほぼほぼ同意なのだが、一つ一つのフレームが《バラバラに砕けた鏡の破片に映った光景のようで、それを寄せ集めても一つの三次元(現実)的な空間は構成されない》というのはちょっと違うのではないかと、今回思った。吉田喜重の特徴的なフレーミングは、構図としてみるのではなく、モンタージュとしてみないと、そのすごさが十分にはわからないのではないか、と。現実的、三次元的な空間の再現ではないというのはその通りだと思うが、しかし、「バラバラに砕けた鏡の破片に映った光景」のようだというのはちょっと違って、複数のカットのモンタージュによって、(三次元的なものとは異なる)空間が立ち上がっているところを、ちゃんと見ないとダメなのではないかと思う。

今回、特に強くそれを思ったのは、岡田茉莉子の夢を、男女四人で再現しながら分析していく場面。ここで語られている話自体は、わりとよくある感じの俗流精神分析なのだが、この場面のモンタージュによってたちあげられている(半三次元的な、と言うべきか)複雑な映画的時空の展開は、息をのんで見入る面白さだった。詳しいことは、ワンカットずつ分析してみないと分からないが、たんに面白い構図のカットが次々にあらわれるというのではなく、複雑な構図と複雑な構図とが、その成分の何割かが連続しつつ、何割かは不連続や切断を示しているという具合につなげられているというような、複雑な相互関係をもっているように思った。半分はナルセのようにつながっているのに、半分はセイジュンのようにつながっていない、みたいな。

また、今回強く感じたのは、たんに「テンポのいい編集」というのではなく、カットが切り替わるタイミングの見事さというか、カットが切り替わることで空間が動いていくという感覚だった。継起的なリズム感という以上に、空間感として立ち上がる感じ。

だから、この映画の様々なイメージを統御しているのが「固有名」や「言語的な秩序」だ、というのも、ちょっと違うと思った。たしかに、セリフだけを聞いていても話の進行が十分に理解できるという意味で、言語的秩序による統御が一方に強くあるのだが、他方で、それとは必ずしも重なり合うわけではないものとして、複雑なモンタージュ言語(モンタージュ時空)が成立しているように感じられた。

(特徴的な構図をつくるために鏡が多用されているが、それをもって、鏡=ペルソナ=女優、みたいに読むのはちょっと単純すぎるように思う。)