●『レイクサイドマーダーケース』(青山真治)をU-NEXTで。昨日、『告白的女優論』(吉田喜重)の岡田茉莉子の夢の分析の場面を観ているときに、なんとなく似た感触があるものとしてこの映画を思い浮かべたから観てみたのだが、ぜんぜん関係なかった(特に似た感触とかはなかった)。
青山真治の全作品を観られているわけではないが、観ることのできた作品のほとんど複数回観ているのだけど、この映画に限っては、2005年にDVDで一回観ただけで、その後、観返すことは今までなかった。そのくらい、観た時にピンとくるものがなかったということだろう。特に、良い印象も悪い印象もなかった。
今回改めて観たら思いのほかよかった。東野圭吾原作のミステリを、ミステリとしてではなく、あくまで俳優たちの緊迫した演技合戦として演出していて、だから謎解きというのではなく、俳優たちの演技に引き込まれるうちに、意外な出来事が起こって(意外な事実が発覚して)、話が前提からがらっと変わっていくことが何度かある、という展開になっている。
犯人が、三転、四転くらいするのだが、「謎」が提起されたり「真犯人探し」が行われたりするのでなく、Aだと思ったらBだった、Bだと思ったらCだった、と、展開に応じてフレームが変わってくることて犯人の位置が変位するという形をとっている(役所広司はミステリの探偵ではなく、ハードボイルドの一人称視点に近い)。ミステリを、このような方向へ転換させたというのが、まず一つの重要な創意工夫だと思う。演技合戦みたいな映画はあまり好きではないが、やりすぎにならないように非常によく抑制されている。おそらくこの作品は、青山真治が、とっぽい感じを極力抑制して、演出家としての職人仕事に徹した最初の映画なのではないか。
うろ覚えで記憶違いである可能性もあるが、確か青山真治はインタビューで、ジョン・カーペンターの『光る眼』をひとつの参照項としていると言っていた気がする(薬師丸ひろ子の眼が光るカットもある)。子供の側の心情が、ほぼブラックボックスになっているという点で近いのかもしれない。
また、青山作品としては『私立探偵濱マイク 名前のない森』に近く、どちらも、とても同調性の高い集団のなかに、その同調に馴染まない人物が入ってきて、様々な軋轢を生じさせるが、最後には同調側に飲み込まれる、という話になっている。とはいえ、その同調的空間の造形はまったく異なっていて、「濱マイク」では、運動のリズムがふわっと同期してしまうような緩い時空がつくられていたが、「レイクサイド」では、緊密な演技によって、同調側と非同調側とのあいだに緊張に満ちた摩擦がつくりだされる。「濱マイク」にはなくて「レイクサイド」にあるのは、同調側の幸福な調和を破壊する、モノとしての死体の存在が最後に強調されることだろうか。「濱マイク」で同調に抗するものは、マイクの過剰な笑い(空笑い)くらいだろう。