⚫︎吉田喜重のフレーミングの不思議さというのは、観ていればなんとなくわかるのだけど、モンタージュの不思議さについては、ただ映画を観ているだけではなかなか掴みにくいので、ちょっとだけ描き出してみた。
『煉獄エロイカ』の冒頭近くの場面。岡田茉莉子が、その後ずっと、自分を「仮の母親」と見立てて付き纏ってくる娘と出会うところ。岡田茉莉子はまず、飛び降りた遺体であるかのように横たわる娘を見つける。しかしすぐに、何人もの人物たちがやってきて、その遺体であるかのような娘を担架にのせて運び去る(なかったことにするかのように)。岡田茉莉子はそれを追うようにして、巨大な建物の中から外に出る。外に出たところで、誰ものせていない無人の担架が…。そしてタイトル。
タイトルの後に別のシーンが挟まって、クレジットが示され、その次の下のカットになる。(1)フレームの大部分を前景にある自動車が覆うなか、後方に見える建物から、岡田茉莉子(赤い輪郭線)が、カメラの方に向かって歩いてくる。
(2)立ち止まって、画面に向かって右手を見るアクションがあって、次のカットに切り替わる。岡田茉莉子は、カメラの後方を見ている(カメラはここで、徐々に岡田茉莉子に近づいていく)。
すると、カットが変わり、(3)岡田茉莉子の視線の先を表すと思われるカットになる。やや離れたところにあるビルの窓から、その室内が見え、そこにベッドに横たわる女が見える(この女が「あの娘」なのだろうと観客は推測する)。室内に男が入ってきて、女を品定めするように見下ろす。男が、視線を上げ、窓の外を見るかのようなアクションがあって、そこでカットが途切れる。
(4)カットが切り返され、室内から、岡田茉莉子のいる場所が見られているカットになる。これは、単純な構図・逆構図の切り返しと言えるが、前のカットで窓の外を見た男の視線がカットが切り替わるきっかけになっているようなので「男の視点」を感じる。とはいえ、男の背中がフレーム内にあるので、男の視点のカットとまでは言い切れない(ただ、岡田茉莉子が男の視線に捉えられたという感覚はある)。
前のカットからのつながりによって、画面右下に映っている岡田茉莉子は、視線の主体である(彼女がこの部屋を見ている)と同時に、視線の対象(この部屋から彼女が見られている)であるかのように感じられる。最初のカットの自動車も小さく映っている。岡田茉莉子は、坂を下って(画面下へ向かって)フレームアウトする。岡田茉莉子がフレームから消えた後、ベッドに横たわる娘と傍らに立つ男との会話が始まる(この後、男は娘に覆い被さるような姿勢をとる)。
(5)カットは再び逆の位置へと切り返される。このカットは「ガラス越し」であり、部屋の(窓の)外という位置に視点があることが示されている。男は、娘にとても近い距離で顔を近づけて話しているが、背後に気配を感じて顔を後ろに向けると、ドアが開いて、岡田茉莉子がそこに立っている。このカットは、視点の方向としてはこれまで「岡田茉莉子の視点」を表していたはずなのに、その背後から視線の主である岡田茉莉子が現れるので、空間がよじれたような感覚になる。
こうして見てみると、視線で繋いで、切り返しているだけなので、意外にもオーソドックスなモンタージュのようでもある。ただし前述したように、岡田茉莉子が、自分自身の視点の背後からヌッと現れるような不気味なモンタージュになっている。
もう一つ、視線と、構図・逆構図で繋がれているので、「視点の方向」という意味ではオーソドックスな繋ぎなのだが、距離感がおかしく感じられる。目に見えたところには、次の瞬間にパッと移動できるかのような、空間的に断絶したところにもスッと到達できてしまうかのような、(人物の移動にかんして)常識的な感覚としての距離感の失調がある。
このような(鈴木清順的とも言えるような)距離感の失調が、通常の空間感覚を歪ませるような特異なフレーミングと相まって、三+一次元的な時空を変容させつつも、しかしその実、モンタージュ自体は結構オーソドックスであることで、繋がっていないのに繋がっている、繋がっているのに繋がっていない、かのような不思議な時空を生み出しているのではないか、と思った。
また、(1)のカットから、(2)を媒介として(3)へと繋がる時の、因果性の希薄さということもある。(2)のようなカットを挟めば、どんなにかけ離れたカットでも繋げてしまうというのは、映画ではよくあるやり方だと思うが、それにしても、(1)のカットが(3)のカットに結びつけられることの意外性からくる驚きというか、ショックのようなものがあり、その(かけ離れたもの同士が結びつけられる時の)「ショックの強さ」が、何の根拠もない二人の女性の結びつきに「根拠のない(物語的な因果性のない)根拠」を与えているように思われる。
ただ、(1)と(3)の結びつきは「視覚」によるもので、人の目は結構「遠く」まで見ることが出来るという事実がある。しかし、視点が(3)から(4)へと、かなりの距離と(谷間のような)断絶を踏破して「切り返される」とき、それを観ている観客に、今、目にしているものが、常識的な空間感覚では捉えきれない、その変容を強いるものなのだということが否応なく自覚され、自分が今、ヤバいものに巻き込まれているのだということを知る。という感じではないか。
(追記。とはいえ、(4)のカットによって、(1)のカットと(3)のカットとの強引とも見えた繋がりに空間的根拠が与えられたとも言える。その「根拠の与え方」が、「おおっ」と驚くようなものになっているのだが。)
(物語的・因果的な展開とは別の、空間解釈的な展開としては、(1)から(4)の流れが起承転結になっていて、そこに(5)で、不気味なものが加わるという感じか。)