2022/09/07

●『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』(青山真治)がYouTubeにあったので観た。ぼくにとって、青山真治の映画のなかでもっともピンとこない作品。今回観てもやはり、うーん、という感じだった。観始めてしばらくして、これは黒沢清の『大いなる幻影』から着想を得ているのではないかと思い、比較してみたら何か気づくこともあるかもしれないと思ったが、それによって特に得られるものもなかった。かっこいいカットやそれ自体としては面白い場面は多々あるが、映画全体としてはピントがぼけているというか、ぼくの目ではうまくピントを合わせることができない。

たとえば、かなり重要な役で筒井康隆が出ているのだが、なぜ筒井康隆なのかがよく分からない。彼は、我々がメディアを通じて知っている筒井康隆のイメージそのままの感じで出ていて、まったく「筒井康隆」にしか見えない(このおっさん誰だろうと思ったら、筒井康隆じゃん、という見え方ならまた違ったと思うが)。家族みんなに死なれて、唯一生き残った孫娘(宮崎あおい)の病気を治すために奔走する資産家という役も、我々が知っている「筒井康隆」というイメージに対して何の意外性もなく、わざわざ筒井康隆に出演してもらうこと(その役を筒井康隆に当てること)による創意や創造性のようなものは感じられない。そして、筒井康隆は中途半端に「芝居ができる(というか、芝居をしてしまう)」人なので、「いい素人感」のようなものも出ない。

ここで筒井康隆は、たんに一俳優としてではなく、「筒井康隆という高名な小説家」として出演し、資産家の役をやっていると思うのだが、しかし、そのことがこの映画にとってなぜ必要だったのかがよく分からない。また、岡田茉莉子も、一俳優としてではなく、小津安二郎吉田喜重の映画に出ている、日本映画史上の偉大な俳優という「意味」を背負って(つまり固有名「岡田茉莉子」として)この映画に出ているように思うのだが、その「意味」がこの作品の構築上で「どのように効いているのか」がイマイチ分からない(つまり、「効いていない」ように見える)。

 (筒井康隆でいいと思ったのは、倒れた宮崎あおいを助け起こすために、筒井が平原を必死で走っているカットで、まるでガチョウのようにドタドタ走るのだが、おお、筒井康隆をこんなに走らせちゃってるよ、と、こんなことさせていいのか、と思う。それに次いで、宮崎あおいをお姫様抱っこみたいに抱き上げようとする。そこで、大丈夫なのか、持ち上げられるのか、とひやひやするが、実際には抱き上げないが、抱き上げた風に見せるようなカット割りになっていた。ここは無理させないんだな、と。)

岡田茉莉子筒井康隆の世代があり、浅野忠信中原昌也の世代があり、宮崎あおいの世代がある。滅びゆくというか、滅びつつある世界のなかでの、三つの世代のそれぞれの異なるありようを示したいということなのだと思うが、映画の中心にある浅野、中原の世代によってつくられる映画としての調子と、そこに関わってくる岡田、筒井の世代がつくる映画としての質感が、あまりにもかみ合わないようにみえて、観ていてとても混乱させられる。また、滅びつつある世界で、これから生きていかなければならない若い世代として宮崎あおいを出してくるのだが、無防備にただ出てくるだけみたいな感じで(この感じは、これはこれで悪くはないと思うが)、あやふやな未来の感触のようなものを、そのヒロイン性に安易に預けてしまっている感じもある。

この映画ではいろいろな点で、「うーん」というかみ合わない感じを感じてしまう。扇風機と傘の骨と複数のホースでつくった楽器の出す音の良さは、爆音では消えてしまうじゃん、みたいなちぐはぐさ。とにかくトーンがバラバラで、かといって多焦点的というわけでもなく、今回もぼくにはこれらの異質のトーンたちのピントをうまく合わせて観ることができなかった。最後の十分くらいは妙にいいのだが、それも、ラストだけ唐突に「いい感じ」にしたようにも見えてしまう。

(日本語を理解せず、外国語話者として字幕で観たら、きっと随分印象が違うのだろうと思う映画でもある。)