●huluのラインナップには、古典映画がとても乏しいのだけど(松竹と提携しているからか)さすがに小津は多少あって、最近は、寝る前に三、四十分くらい小津を観ている。一本の映画を三日くらいに分けてきれぎれに観ることになるのだが、動画配信というスタイルはDVDなどで観るより、途中で止めたり、途中から始めたりすることへの躊躇(抵抗)の感じが少ない。
(変な映画だなと改めて思う。ほんとに切り返しでは視線が繋がってないようにみえるし、ここまで堂々と繋がっていなくてもOKなのか、と。)
小津は同じような家族の主題ばかり撮っていたとも言われるが、当然のように、作品によってかなり描かれる主軸がことなる。晩年の作品だけを観ても、『宗方姉妹』や『早春』は夫婦の関係を軸にした話だし、『晩春』や『麦秋』は、娘を嫁にやることで家族が崩壊する話だ(前者は父と娘の二人だけの家族だが、後者は三世代同居の大家族という違いはある)。そして『東京物語』は、ポスト『麦秋』ともいえる、家族崩壊後に残された両親の話だ。
これらの映画では、夫婦の関係に危機があり、家族の関係にも危機があるにも関わらず、夫婦や家族というものが、ある強さというか、ひとつの普遍的な単位のように扱われている。しかし『東京物語』では、それがもう成り立たないことが示される。
そしてそれ以降、『東京暮色』や、特にカラー以降、『彼岸花』より後の映画では、家族は崩壊しないで存続しているが、家族という場が、それ以前とは異なる、世代間抗争(そして男女間抗争)の場となる。つまり、父と娘とが明らかに対立する(『麦秋』の原節子も、家族の進める縁談を無視して、唐突に別の人との結婚を決めるのだけど、ここには対立や裏切りというニュアンスはない)。おそらく、家族が世代間対立の場になることによって、父の位置が、笠智衆から佐分利信にかわる。それに従い、佐分利信中村伸郎、北竜二という、セクハラ親父トリオが出現する。
たとえば『彼岸花』の佐分利信は、戦後の厳しい時代から一生懸命働いて来て、ようやく、日本の戦後社会も安定し、自分も社会的な高い地位(会社の重役)を得て、生活も安定してきたと思っているのだけど、ふと気が付くと、既に「古い権威」のような存在になってしまっていて、若い社員たちからは疎まれ、娘からは(結婚話の件で)裏切られる。佐分利信は、社会的には強者であり、家父長制的な家族のなかで権威として威張っている父であるが、しかし、高い位置で梯子を外され、孤立して宙に浮いているような状態になっている。
佐分利信の妻、田中絹代は、戦争中は大変だったけど家族が一つだったように思う(つまり今はそうではない)、と言うが、佐分利信は、「あの頃は下らない奴が威張っていて最悪だった」という。つまり、今、ようやく自分たちの時代が来ているのだ、と。しかし、晩年の小津の映画において、女たちはしばしば、世代を超えた連帯を示すのだけど(『東京暮色』のように、それが悲劇的な結果に至ることもあるけど)、佐分利信の世代の男性たちは、富と権威を持ちつつも孤立しており、硬直化していて、結局は、嫌であった戦争時代の戦友たちという、同性で同世代の者たちとつるむしかなくなってしまっている。
晩年の小津の映画で、世代や立場を軽々と越える自由な存在の象徴として岡田茉莉子がいるとすれば、富や権力をもちながらも、恐竜のように巨大なまま硬直し孤立してしまった男性たちの象徴として佐分利信がいる。
●小津の映画のなかで、ただ笠智衆だけが、実年齢とは関係のない、様々な年代の役を演じ分けているのが興味深い。1951年の『麦秋』で、笠智衆原節子と兄と妹という関係だったし、まだ小さな子供がいるという年齢の若い医師にふさわしい感じであったのに、わずかその二年後(1953年)の『東京物語』では、笠と原は、義父と(戦死した)息子の嫁という関係で、笠智衆はすっかり「お爺さん」という感じだ(『麦秋』では母であった東山千栄子が笠の妻である)。そしてその三年後(1956年)の『早春』で、笠智衆は、池部良の先輩であり、初老というにはまだ若すぎる中年男性の役だし、その年齢にちゃんと見える。遡って、1949年の『晩春』で、笠と原は父と娘だが、この時の笠は『東京物語』ほど老けた感じではなく、しかし、それより後に撮られた『麦秋』や『早春』よりは、あきらかに老けている。
しかし、笠智衆のこのような時間を超えた自在さは、最晩年のカラー作品ではみられなくなり、ほぼ実年齢に近い、佐分利信などと同世代の男性として固定されてしまう。まあ、若い時に「老け役」は出来ても、歳をとってからの「若作り」は難しいということに過ぎないかもしれないが。
(笠智衆は1904年生まれなので、『東京物語』の時には49歳。)