●『街の灯』(森﨑東)。面白かったけど、これは難しい映画だと思った。どの場面も面白いのだが、一本の映画としてのつかみ所がよくわからない。やたらとガチャガチャした映画で、そのガチャガチャ具合だけを見ると『金田一耕助の冒険』(大林宣彦)くらいガチャガチャしている。だがそれは、大林の映画に似ているということではない。
冒頭のクレジットの部分、堺正章が財津一郎を背負って走っているところで、コマ落としとストップモーションを組み合わせた(まるでゴダールみたい、と言ってもいいかもしれない)不思議なリズムの運動をつくりだしている。これがクレジットタイトル部分だけの意匠ではなく、全編にわたって、走ったりするアクションの場面でコマ落としが頻繁に使われていて、不自然な時間感覚を生じさせる。
この映画の主要なエピソードの一つに、笠智衆、栗田ひろみ、堺正章の三人(+子供が二人)が、東京から九州(筑豊)まで歩いていくというものがある。しかしこの東京から筑豊までの過程には、大船観音のエピソード、フランキー堺と研ナオコの夫婦のエピソード、女子プロレス団体とのエピソードの三つのエピソードしか差し挟まれないで、それ以外では、堺正章の歌を背景にして、岡山・広島・岩国・柳井などの地名が示され、短い風景カットがパパッと重ねられるだけだ。つまり「九州まで歩く」という物語内容と、短いエピソードと短いカットを重ねるだけで、コマ落としのようにパパッと九州に着いてしまう映画の形式とがかみ合っていない。この、かみ合っていない不自然な時間感覚と、アクションの場面で多用されるコマ落としとは関係があるように思う。
(ウザいくらいに動き回り喋りまくる堺正章の演技もまた、この不自然なリズムと同調しているようにみえる。)
●物語の軸の一つとして、疑似家族があると言える。吉田日出子、財津一郎、堺正章の三人は、姉ちゃん、兄ちゃんと呼び合い、兄弟のように暮らすが、実は三人とも孤児だ。そして、孤児であった吉田日出子は、多くの孤児を引き受け育てている。さらに、歩いて九州へ向かう笠智衆、栗田ひろみ、堺正章は、その過程で二人の孤児を引き取り行動を共にして、家族のようなものを形成する(栗田ひろみは、笠智衆の妻であり、堺正章の妻でもある)。
出自としてある自然な家族ではなく、事後的、人工的な関係-接続によって生まれる擬似的(再帰的)な家族関係が主題であることと、コマ落とし的な不自然な時間のモンタージュがなされていることとは、関係があるように思われる。
●三人が九州までやってきた理由であり、普通ならばこの物語のクライマックスを構成するはずの、笠智衆と鈴木光枝と三木のり平との五十年来の因縁は、びっくりするほどあっさりと片付けられる。鈴木光枝など、五十年年来の因縁で争う笠智衆と三木のり平に背を向け、「五十年も溜まった男のヒステリーだ」とにべもなく言って無関心であるかのようにフレームアウトする(笠智衆のための食事を重箱に詰めながら、というところに余韻が込められてはいるが)。あらゆるエピソードが、過剰に盛り上げられることなく、感傷的になることなく、あっさりと処理され、次々と走り去っていく。
●そして、終盤の展開が驚くべきものだ。出自としての故郷、家族からリジェクトされた笠智衆は、銀行強盗で得た資金を持って、ブラジルに再出発しようとする。この再出発には、孤児である堺正章や記憶をなくしたことでそれ以前の人間関係を失った栗田ひろみたちとで形成された疑似(再帰的)家族も含まれているだろう。終盤の展開は、この再出発、再帰的家族が崩壊していく過程が描かれる。特に痛ましいのは、記憶が戻ることで再帰的家族から離脱せざるを得なくなり、しかし自らの意思で再帰的家族に再び合流し直そうとして死んでしまう栗田ひろみだ。
その一方で、吉田日出子と財津一郎による再帰的家族は存続し、ますます多くの孤児たちと共にある。そして、彼らの元に幽霊となった栗田ひろみが降臨する。