●清水高志さんがリツイートしている、最近、Mさんが過去の自身のツイ―トをリツイートしている部分(おそらく岩田慶治『道元との対話』の引用?)は、たしかにすごくハーマン的であり、そして内部観測的だと思う(清水さんがリツイートしているのは零時を回った後なので、これは本当は「明日」の出来事になるのだけど)。
《「もし画は実にあらずといはば、方法みな実にあらず。方法みな実にあらずは、仏法も実にあらず。仏法もし実なるには、画餅すなはち実なるべし」である。》
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《(承前)≪『正法眼蔵』に「画餅」の巻がある。巻のはじめに、古仏いわく「画餅は飢に充たず」という文章がかかげられている。そこで、なるほど画に描いた餅は食べられないという教えを説いているのかと思うが実はそうではない。》
《道元一流のもってまわったいいまわしで「画に描いた餅でなければ食べられない」といっているのである。(…)さて、画餅の重点は、描く、画図するという行為そのものにある。餅を描く、竹を描く、国土を描く。その描くということは何事かと道元は先ず問うているのである。》
《描くということは、創造することである。生きることである。描くという行為の<とき>、<ところ>においてはじめて、山河大地、日月星辰、草木虫魚がそこにあらわれる。それらが<もの>として、おのれにたいするものとして現成する。》
《そこに、その自由の行為のうちに、天国がうつり地獄がうつる。<コスモス>が見える。
描くということ、一般には虚構であると考えられている。しかし、それは違う。》
《「もし画は実にあらずといはば、方法みな実にあらず。方法みな実にあらずは、仏法も実にあらず。仏法もし実なるには、画餅すなはち実なるべし」である。(…)
道元のいいたいのは次の一節である。「ただまさに尽界尽法は画図なるがゆへに、人法は画より現じ、仏祖は画より成ずるなり」。》
《道元は描くという行為そのものを凝視するのである。描くところ、描くという自由の場における創造的行為の尖端において人間界があらわれ、天上界があらわれる。人間と仏が誕生する、天国と地獄が誕生する、そういいたいのであろう。≫》
《人は、意志的な創造の連鎖に参入することを通して、「場所」の次元を、何度も繰返し開きなおすのである。リアリティは、その反復のなかで備給される。
伝承社会における「神話の創造」は、近代以降においては「自己の制作」に置き換えられる。》
《承前)現象は、すべて「時」に映し出された実体の、“或る一つの側面”である。知とは「時」に映し出された現象から、無時間の「実体=モナド」を透察するこころのはたらきのことだと考えてみる。知は、「人間以前の人間とトカゲ以前のトカゲ」が「対話」する「無時間の場」を開くのである。》