●qpさんも、ブログに昨日の空の写真をアップしていた。
http://d.hatena.ne.jp/com/20150627
●大他者が、自身の欠如を埋めるために、私に享楽を差し出すことを要求している、と考えている者が神経症者だ、と、『人はみな妄想する』(松本卓也)に書いてあった。それはつまり、神経症者は、「大他者に享楽を差し出すこと=去勢されること」を常に恐れている(抵抗しようとしている)ということでもある、と。
(精神分析において神経症者とは、大多数の普通の人ということになる。逆に、倒錯者は、自らすすんで大他者の享楽の対象となろうとする者である、と。)
ラカンによれば、人は皆、シニフィアンの体制を受け入れる時点で去勢されている。だけど、「去勢を恐れている」ということは、既に去勢されてしまっているということを認めていないということであり、上手くやれば十全な享楽が可能だというファンタスムをもっているということになる。去勢は、シニフィアンの体制を受け入れることで強いられる「構造的な必然」であるのだけど、神経症者はファンタスムのなかで、本来あるはずの自分の享楽を剥奪する者として「想像的な父の像」をつくりあげ(構造を擬人化して)、父的な権威者によって享楽が奪われているから自分のところに十全な享楽がまわってこないのだ、と空想する。これは逆に言えば、権威的な父を倒すことが可能ならば享楽は自分のところに回ってくるという空想を信じているということだ。勿論、敵のいないところに敵を見ているだけなので、実際に(現実として)仮想敵を倒したところで享楽が回ってくることはない。
ある世代は、前の世代を否定することで自らを主張しようとする。あるいは、直近の過去の流行はひどくダサいものにみえてしまう。あるいは、常に新しいことが求められていた近代芸術における激しいイズムの抗争と交代。これらのことはみな、神経症的で家父長制的なファンタスムが作動していることから生じると言えるのではないか。「あらゆる権威を否定する」という69年的な運動でさえ、まさに家父長制的なファンタスムによってこそ駆動するのではないか。家父長制的体制下にいる者だけが「父を倒せ!」と叫ぶ(ことができる)。
これが極端に昂進してしまうと、あるいは異常作動を起こしてしまうと、陰謀論(黒幕がすべてを牛耳っている)やレイシズム(外国人が我々の利益をかすめ取っている)につながる。
(同じ神経症というカテゴリーでも、ヒステリー者は、去勢をパートナーの側に偏って負わせることで回避しようとするという。父的権威者に従順に仕えることを通じて、支えることによって相手を支配する、というファンタスムをもつ。支える=支配することで相手をこっそりと不能化し、相手の側に去勢を押しつける。従順な妻、あるいはボスの参謀みたいなポジションだろうか。ほんとにこの人はわたしがいないと何もできないんですから……)
フロイトの描く原父の神話で息子たちは、すべての女性を独占的に所有する父(剥奪する想像的父)を共謀して殺す。しかし父の死後、今度は息子同士がライバルになるので、父の位置を占めることはできない。結局息子たちは、自分たち同士の悲惨な殺し合いを避け、父の位置に立つこと(享楽の回復)をあきらめて、互いに享楽を制限し合いながら共同で社会を維持しようと決める。そして父を殺したことを後悔し、その罪の意識が「負債を与える象徴的父」となる。この、罪の意識としての象徴的父が、息子たちに享楽を我慢させ、息子たちの共同による社会の運営(秩序)を維持させる。去勢は、剥奪する想像的父によってではなく、負債を与える象徴的父によってなされる。
近代とはつまり、「父(ファルス中心主義)を倒せ!」と叫ぶ家父長制的な人物たちの時代だったのではないか。たとえば二十世紀初頭のチリが舞台であるホドロフスキー『リアリティのダンス』の父は、息子をしばきあげるマッチョな父であり、レーニンに仕える忠実な共産党員(レーニンの息子)であり、独裁者の暗殺(父殺し)を実行しようする革命家であった。この図式は、近代文学の戯画的典型ともいえる。しかし、それは既に終わりかけている。七十年代のラカンは「エディプスコンプレックスはフロイトの夢であった」というような発言をしているという。
《現実の領野は「ファンタスムのスクリーンによって塞がれることによってしか機能しない》(『人はみな妄想する』)。神経症者の空想は、能動的でマチズモ的な欲望を産出するファンタスムと言えるのではないか。父は二重化されていて、倒すべき対象としての(想像的)父に向けて行動を起こさせ、秩序=法としての(象徴的)父が背後で正義を保証する。人が、社会的に能動的な行為をしようとする時には、それが何にしろ、上のようなファンタスムの支えが必要となるのではないか。たとえば「マイノリティの社会的権利を求める」というような政治的行動においても、上のようなファンタスムは、それを支える有効な燃料であり得る(マイノリティを抑圧する支配層=想像的父への意義申し立てであり、平等という正義=象徴的父への忠誠である)。マイノリティの権利、あるいはリベラリズムのためにもマチズモが必要、という……。しかし、そのようなエディプス的(あるいは家父長制的)なファンタスムは、現在においては既に支配的に作用するほどに強いものではなくなっている、としたら。それ自体は歓迎すべきことだとしても、それによって社会的に能動的な行動を起こすことが困難になるとしたら。
政治への無関心、あるいはレイシズムの横行などは、人の心のモードとしての神経症的、家父長制的な体制が崩壊しつつあることのひとつのあらわれであると考えることもできる。だとすればそれは、別に自民党民主党が悪いとかいう話ではなくなる。
それに対する対処のひとつの例として、マチズモ(家父長制)を復活させるという反動的な方向もあり得る。ポストモダン的な相対主義を批判して、近代的な主体性や、ヨーロッパ的な普遍的理念や正義を復活させようという流れが、それに当たると思われる。「父性の欺瞞」を意識的に(父性の毒をできるだけ脱色するように上手いこと加工を施した上で)使う、ということか。
現状があまりにひどく、他に使える(仕える)ものが見当たらないので、緊急避難的にそれでパッチを当ててゆくしかない、という切実な状況であろう。しかし未来のことを考えるならば、そもそも家父長制的ファンタスムが成立していない人に、あたかもファンタスムが成立しているかのようにして振る舞えと言うことは可能なのだろうか。
●今日のこの日記は、「ぼくにとって政治は耐え難い」ということしか言ってない。
●そういえば少し前に、西川アサキさんが、現代は「リトルピープルの時代」なのではなく「ミドルピープル」の時代なのではないかと言っていた。たとえば、孫正義のような、個として小規模の国家くらいの力をもった(リトルピープルでもビッグブラザーでもない)人が世界中にたくさん、バラバラに散らばって存在していて、そういう人達のネットワークが実質的に世界を動かしているのではないか、と。我々は、彼らのセンサーの一つ、神経端末の一つにすぎないのではないか、と。そのような世界像は、従来の神経症的ファンタスムによってでは描き出すことはできないと思われ、神経症的ファンタスムを動因とする政治によって意味のある作用を及ぼせるようには思えない。