●メイヤスーの『有限性の後で』を改めてパラパラ読み返しているのだけど、面白い。ハーマンが、まず形式的な展開を考え、その形式にみあった具体的な内容を事後的にみつけて当て嵌めていくというスタイル(素粒子物理学の標準模型が正しければ、ここに当て嵌まる未知の素粒子があるはずだ、みたいな感じ)なのに対し、メイヤスーは、論敵を立てて、ガチバトルして論破していくというストロングスタイルで、読んでいる時は、おおーすげーっと興奮するのだが、読み終わってからそこで展開されていた議論を自分の頭で再構成しようとするのはけっこう大変だ。
『有限性の後で』では、相関主義批判というところに大きなウェイトが置かれていて、もっとも白熱した議論がそれについて行われているのだが(メイヤスーは、最も強い相関主義を肯定的に捉えた上で、その立場をくるっと反転させる、この反転が見事なのだけど、逆に言えば、その反転の見事さに比べると、それ以降の議論がそこまで上手くいっている、というか「冴えている」とは思えない)、『四方対象』では、そこは割合にさらっと通り過ぎていて---これで本当に相関主義に対する否定になっているのか、ぼくにはちょっと疑問だが---いわゆる「世界像」の構築の方に力点が置かれている(ハーマンは、哲学者は「単純化」するプロなのだと書き、出来る限り単純な原理から世界の複雑さを構成していこうとする)。メイヤスーがドストエフスキー的だとすると、ハーマンはSF的というか、パズル的ミステリ的という感じ。
論理的な仕事の意味というのは、説得力のある、理性的で論理的な理屈を積み重ねていくことを通じて、その結果として、非常に、非・常識的で、非・直観的な結論が導かれるというところにあると思う。論理の積み重ねによって得られるものが、常識的で直観的なものと同じであるのならば、論理の部分は縮約してしまって常識と直観で済ませた方が経済的だ(常識や直観の検証としては有意味だが)。しかし、たとえば、地球が太陽のまわりを時速10万キロ以上のスピードで公転しているという事実は、地球上にいる人の常識や直観からは決して導かれない。それは、非・常識的であり、非・直観(実感)的である。多くの観測データと、それに対する論理的な計算と解析によってのみ、その非常識こそが事実であることが導かれる。そして、それが広く多くの人に広く受け入れられることを通じて、人々の常識や直観(実感)が変化していく。
(現在では、そのようなイメージは常識としてありふれている。)
だから、論理的な仕事を読むということは、それだけで常識や直観を変化させることであり、あるいいは少なくとも、それらを揺るがすことであるはずだ。つまり、そこに書かれた論理の展開に間違いや不十分さを見つけられない限り、自分の常識や直観や信念が間違っているかもしれないことになり、それらが信じられなくなるというか、確信が揺らぐ。だから論理は、イデオロギー、あるいは思想信条や信仰や美とは相容れない。わたしはこのような状態が好きだ、こうであれば望ましいと思っている、感覚的にはこの感じが心地よい、このような社会のあり様が倫理的に善いと感じている、あるいは、あれはどうしてもフェアだとは感じられない、しかし、論理的にはそれは間違っている(不可能である)、のかもしれない、ということになる。
(人々の常識や直観は「変化し得る」ものだということが、論理的な仕事をする人にとっての希望なのではないか。)
(しかし、論理的に本を読まない人はしばしば、そこに気に入ったスローガンやフレーズを発見するだけという読み方をするので、何を読んでも、けっきょく同じこと---自分が読みたいこと---しか読み取らないことになってしまう。)
数学的な証明は、それが正しいものであれば「公理(前提)」が変化しない限り揺らぐことはない。逆に言えば、公理が満たされていない場合は無効である。そして、われわれが生きているこの世界は、常に「公理」が変化している(不確定である)ような世界だと言える。メイヤスーやハーマンは、この「公理」が変化することがあり得るという事実を、人の認識能力の有限性のためだ(人が世界を完璧に理解することが原理的に不可能なために、理解は常に改良されつづける)と考えるのか、それとも、世界そのものが無根拠に「公理の変化」を受け入れている(世界そのものが根拠なく変化しつづけている)のだと考えるべきか、という違いを問題にしていで、後者であると、(「そうかもしれないけど、それは知り得ない」ではなく)「言い得る」ということを、論理的に主張している。
(このような無茶苦茶なことが「論理的」に導けるのは、世界は制約なくどのようにもあり得る---どのようにも偶然に変化し得る---が、ただ一つ、無矛盾的にしかあり得ないという制約のみはある、とされるからなのだが。これは、数学的に可能な宇宙はすべて多宇宙として存在する、と言ったテグマークと、どこか似ている感じがするのだが。)