●通常人はほとんど論理的に考えない。人が「考える」という時にしていることは、多くの場合、経験則と常識とを組み合わせる、ということをしている。人が生きている様々な場面の、ほとんどはそれで乗り切ることができる。
しかし、経験則と常識とを組み立てても、経験則と常識以上のものは何も出てこない。だから、経験則と常識とでは対処できない場面では「考える」ことに意味がなくなってしまう。
経験則と常識とを超えるためのやり方は、おそらく三つある。(1)直観的に新たな気づきを得る。(2)知識や経験をもつ人から学ぶ。(3)論理的に考えを展開させる。
(1)に関しては、動物としての人間がもともともっている能力なので、鋭いとか鈍いとかの差はあっても、誰でもが出来ることだ。(2)に関しても、ほとんどの人が、学校教育や家族関係によって「先人に学ぶこと」を学んでいる。
しかし(3)は、人が自然にもっている能力ではなく(あるいは、人がもともと持っていた能力を元にして)、人類がその歴史のなかで発見し、改良し発達させてきたものなので、そのやり方を学び、訓練しないで行うことが難しい(将棋のルールを教わることなく将棋が出来るようになるのが難しいのと同様、しかし、観ているだけでルールや戦法を把握してしまう人も稀にはいるだろう)。そして、多くの人はそれを学んでいない。ぼく自身、論理的に考えるとこがどういうことなのかを、人から教わった覚えがない。
(高校までは数学は学んだはずだけど。)
●議論というのは、論理を使って行う。自分一人で考えていたのでは気付かなかった論理の穴や弱点や矛盾、あるいは、自分だけでは得られない新たな視点や気づき、展開の可能性などを、他人と話すことによって知ることができるのが利点だ。それは、論理を媒介とすることで、複数の頭で考えることを可能にするということだ。でも、「論理的に考える」ことをしない場合、議論は成立しない。
ただ、多くの場合、自分の立場の主張と、比喩的な説得力の争いが議論と呼ばれる。しかしそれは議論ではなく、政治的な折衝であろう。折衝には、政治的には大きな意味があるが、議論としての価値はほとんどない。折衝において重要なのは説得力であり論理ではない。この場合説得力とは、様々な駆け引きや権力、詐術も込みでの話だ。
(たとえば、政治的な討論というのは、聴衆に対する折衝だと考えるべきだろう。それは議論からとても遠い行為だ。)
はじめは立場Aだった人が、話をすることで立場Bに変わったとする。議論においてこの変化が起きるのは、Aが論理的に間違っていると認めた、あるいは、Bの方がより蓋然性が高いと論理的に判断されたことを意味する。しかし、折衝においては、そうとは限らない。
議論の場合、自分の立場、信仰、イデオロギー、欲望などよりも、論理が優先される。論理的な展開によって、常識的にはまったく信じられない場所につれていかれること、あるいは自分にとって決定的に不利な結論になってしまう場合もある。しかし折衝では、自分の立場、信仰、イデオロギー、欲望などがまず先あり、それらの間の係争、力の駆け引きにより、変化(相互譲歩)が生じる。この場合、結論はあまり突飛なもの、極端なものではないことが望ましい。
議論は、信頼できる相手としか成立しない。その人が論理的に思考できる人なのか、議論の流れのなかでその人の信念を逆なでするような展開になったとしてもすぐに怒ったりせずその可能性を冷静に検討できるような人なのか、意味のない批判などをせず建設的に議論を組み立てる人なのか、逆に、疑問があっても呑み込んでしまうような人ではないのか、などの点で信頼が成り立たないと議論はできない。対して、折衝は、多くの場合で敵対的な関係、あるいは緊張関係にある相手との間で行われる。
●こんなにも異なる「議論」と「折衝」とを、混同したり、とても似た行為であるかのように扱うのははやくやめた方がいいと思う。