●『量子という謎』(白井仁人、東克明、森田邦久、渡部鉄兵)で、量子力学観測問題についてとても明快に説明されていたのでメモしておく。
量子力学で観測が問題とされる時、次の三つの条件がかかわってくるという。
(A)固有値⇆固有状態リンク
(B)独立系のシュレーディンガー方程式に従う状態の変化
(C)測定が行われると測定値がえられるという経験的事実。
(A)とは、状態と性質が必要充分条件として一対一対応しているということ。計測によって得られた値がある数値である場合、計測対象は必ずそれに対応する特定の状態にあり、また、対象がその状態であるときにのみ、計測値がその数値であるということ。この双条件法が完全に成り立たない場合、その理論は、世界の「実在」を説明するものとして充分なものとは言えなくなる。
(B)とは、シュレーディンガー方程式が、量子力学の基本原理としてその理論に組み込まれていることを意味する。理論的に基礎的な条件といえる。
(C)は、量子力学の理論から独立していて、そもそも経験科学が成立するための(暗黙の)前提、あるいは常識といえるものだろう。
実験を行い、計測をするというとき、この三つの条件はとても重要なものと言える。しかし、この三つの条件は、どの二つをとっても整合的だが、三つすべてが同時に成立することは論理的にあり得ないという。だから、「観測問題」とは、この三つの条件のうち「どれであれば外しても大丈夫なのか」という問題であり、そして、どれを否定する(または、規則の追加・修正をする)立場をとるかによって、この世界の「実在」に対する態度が決まってしまう。そして、この「実在に対する態度」そのものは、量子力学からは得られない。
(A)を否定する場合、量子力学が「実在を記述する理論」として完全ではないことを認めるということになる。これは例えば、EPR論証などを通じて「神はサイコロを振らない」と主張したアインシュタインの立場へと通じる。
(B)を否定する(修正)のは理論的な問題であり、二通りの立場がある。一つ目は、シュレーディンガー方程式を、例えば非線形の時間発展を許すように修正する、という形をとる。この詳細は、非常に専門的で難しい議論になるのでここでは取り上げられない。二つ目は、物理学の多くの教科書で採用されている、観測問題の最も一般的な処理の仕方で、フォン・ノイマンが提案したもの。「観測によって波束が収縮する」という「規則」を(外から)一つ追加する立場。どちらにしても、(B)の修正が、最も多くの物理学者が選択している一般的な立場といえる。ここをいじるのであれば「理論」の枠内でなんとかいける。
(シュレーディンガー方程式に従う状態変化は可逆的な過程であるが、射影公準の追加---波束の収縮---に基づく状態変化は、情報論的な意味でエントロピーを増加させる不可逆的な変化となる。)
(C)を否定する場合、「測定すれば一つの値が確かに得られる」という経験的事実(常識)が既に「誤った信念」であると主張することになる。たとえば、測定によって本当は複数の値が得られているのだ、と考える。ここから、エペレットの「多世界解釈」(分岐した世界でそれぞれ異なる値が得られている)なども導かれる。
《本章で観測問題を定式化する際に用いた3つの条件のうち、条件(B)を受け入れるか否かは、物理理論としての量子力学の整合性や単純さに関わっており、いわば理論の問題であるといえる。また、条件(C)を受け入れるか否かは、測定結果が得られているというわれわれの感覚、あるいはそういった確信をどのように理解するかに関わっており、経験(あるいはその認識)の問題である。他方で、条件(A)を受け入れるか否かは、理論から一歩踏み込んで、理論をどのように解釈するのかに関わっており、しかも経験から独立しているという意味で、形而上学的な問題であるように思われる。》
●そして、量子力学の「理論」のみからは、(A)の条件が成立していることは導けないのだ、と。
量子力学の理論形式が、状態と性質の無制限な結びつきを禁じているのは間違いない(第3章のコッヘン=シュベッカーの論証を参照)、だかそれでも、量子力学の理論形式だけから、条件(A)、すなわち固有値⇆固有状態リンクが理論的に帰結されるわけではない。状態と性質の結びつきについて、量子力学の理論形式はより多くの可能性に開かれている。こうした可能な解釈、つまり理論と整合的な解釈は無数にあるが、観測問題が問題とみなされるためには、そのうちいずれかを採用しなければならない。観測問題の定式化を担う要因の一つである条件(A)を認めるにしても、条件(A)を認めない解釈を採用するにしても、それは理論を踏み越えて、理論から描きうる実在の描像に関するなんらかの立場を表明することにほかならない。》