●朝カルで、西川アサキ・保坂和志講義。意識の連続性についてまず空間的に考えてみる。そして、空間的に考えたのでは届かないリミットが示せれば、それが「時間の空間化」の限界としてはっきりするだろう、と。その時、意識の統合性に関わる三つの境界原理として、(1)情報論的、(2)物理的、(3)体験・言語的、の原理を考えるという話。
(2)の、物理的な境界原理の話で西川さんはフォン・ノイマンの『量子力学の数学的基礎』の最終章を引きつつ、量子論のみを考えるとこの宇宙は決定論的であり、古典論のみを考えても決定論的だけど、量子論と古典論が接するところで、(「隠れた変数」ではない)真のランダム性があらわれるという話をしていた。これがいわゆる「観測問題」と呼ばれるものだろう。
でも、おそらく現在の物理学者の多くは、デコヒーレンスなどの概念を用いることで「観測問題は存在しない」と言うと思われる。「波動関数の収縮」とは、異なる量子状態間の干渉(遷移確率)の消失(デコヒーレンス)であるのだ、と。「シュレーディンガーの猫」の猫のようなマクロな系は、孤立系とはなり得ず、常に外界からの揺動を受けていて、その揺動が猫の波動関数を収縮させる、と。要するに、マクロな系の膨大なノイズによって量子的な状態が破壊されて消失するので、誰かが蓋を開けて確認する前から生きているか死んでいるか決まっているということになる。一滴のワインが海のなかで消えてしまうように、情報が消失することで、量子世界は勝手に古典化する。多くの量子論についての啓蒙書では、そのように書かれている。でも西川さんは、デコヒーレンスだけでは観測問題は解決しないと考えているのだろう。ウィキペディアの「量子デコヒーレンス」の項にも、≪デコヒーレンスによって系の状態が完全に古典(混合)状態へと移行する訳ではないので、 状態が決定されるためには観測もしくは、多世界解釈による世界の分岐が必要となる可能性がある≫、と書かれている。
(ぼくの物理・数学の知識はいい加減なので、以下に書かれていることはあまり信用しないでください。)
ウィキペディアの「量子デコヒーレンス」の項に書かれた、デコヒーレンスについての「直感的」な説明。
≪二重スリット実験を考えてみよう。2つのスリットから出た光は干渉し、スクリーン上に濃淡の縞模様を映し出す。ところが、もしもスリット板が外部からの揺動やノイズにさらされている場合どうなるだろうか? 縞模様は振動し、光の濃い部分と薄い部分が混ざり合い平均化されてしまう。実際に、電子を用いた干渉実験の撮影時には、実験施設の近くをダンプカーが通っただけで失敗する。縞模様は量子干渉を表しているので、この事は外部からの揺動が量子性を破壊したことを示している。≫
マクロな(古典的な)スケールの系では、常に外部からの振動や熱といったノイズに晒されているので、量子的な重ね合わせの状態の情報はまたたくまに壊れて(平均化して)しまうのだ、と。とはいえ、マクロなスケールでも必ず量子的な状態が壊れるとは限らない、とも書かれている。
≪ここでの「巨視的」というのは、かつては空間的スケールの事を指していた。しかしながら現在では、巨視的物体であっても極低温まで冷やすなどして熱揺らぎを除いた場合には、量子揺らぎが重要になることが知られている。実際、次世代重力波検出実験に用いられるレーザーの反射鏡は巨視的物体であるけれども、量子力学的に取り扱われる事が実験的に必要である。よって古典系かどうかは空間のスケールのみで決定されるわけではない、という考え方が主流になってきている。≫
あるいは、
≪よく「閉鎖系のエントロピーは増大する」と言われる。このような、エントロピーが「増えた」とか「減った」という時には、必ず粗視化あるいは縮約操作が入っている事に注意しよう。粗視化されていない厳密な分布関数…例えば量子力学的な…から決定されるエントロピーは時間依存性を持たない。粗視化されて初めて、系は時間反転対称性を失い、エントロピーの一方的な増加法則が生まれる。≫
「時間反転対称性を失う」ということは、時間の経過によって情報が失われる(覆水盆に返らず)ということだが、それを言うためには物理学的、数学的には「粗視化」あるいは「縮約」という操作(平均化)が必要であり、そうではない「厳密な分布関数…例えば量子力学的な」状態では時間対称的である、つまり可逆的であり、情報は失われない。
時間が流れる=情報が失われる≒量子系から古典系へと移行する(本当は古典系も時間対称的なはずだけど)、ためには、「粗視化」「縮約」という数学的な操作が必要なのだが、その移行のための人為的操作を、自然界において「誰が」行っているのか、という問題は消えない。そして、世界が、量子的世界と古典的世界とに二重化されてしまっているという事実も消えない。おそらく、「観測問題」(というより、境界問題?)が消えていないというのは、そういうことでもあるのではないかと勝手に考えた。
ウィキペディアから追加引用。「古典系における時間反転対称性の破れ」について。これもかなり面白い。
≪古典系においての基礎方程式であるニュートン方程式は時間反転対称性つまり可逆性を持つ。ある運動に対して、その向きを反転した運動が存在する。ところが液体中の古典粒子の運動を記述するランジュバン方程式は不可逆な方程式である。静水の中で発射されたボールは水分子との衝突により減衰し静止する。しかし静止したボールが静水中の分子からの揺動を受けて高速度となる事は起こらない。
ニュートン方程式からランジュバン方程式を導出する際には「粗視化」あるいは「縮約」という平均化操作が行われる。水分子全てとボールを全てニュートン方程式で記述し、そして水分子の自由度をすべて平均化すると、ボールのみに対するランジュバン方程式が得られる。そしてボールは不可逆性を得る(森理論)。
この事は平均化によって水分子の詳細な情報が失われた事によるとも言えるし、「水+ボール」という複合系の部分系「ボール」は、保存系ではないからなんでもあり(環境効果)とも言える。このように粗視化操作によって、我々の住む巨視的な世界の不可逆性が再現される。≫
古典物理学的世界でも、「平均化操作」がなければ時間は流れない。では、誰がその操作を実行して「時間を生み」、そして「時間の方向を決めている」のか。
(追記)
●西川さんから、≪デコヒーレンスは状態間の干渉を弱める説明にはなりますが≫、≪どの状態が選ばれるか決定できず≫…、というメールをいただいた。デコヒーレンスでは、「シュレーディンガーの猫」でたとえると、「観測するまでは、猫が生きていると同時に死んでいるという状態である」(「観測」が生死を決めるかのような)ことは否定できても、生きているか、死んでいるか、どちらの状態に「着地する」のかを決定する、その要因を説明できないということなのか。何が生死を決めるのか分からないので、そこにランダム性がある、と。
●で、そうメールしたら、いや、そうではなく、状態は観測するまで決まらないはずで、≪デコヒーレンスで消えるのは、死んでいてかつ生きている猫という干渉した状態の強さ≫なのだ、と。
この件にかんする簡単な入門書として『量子力学の哲学』(マックス・ヤンマー)と『量子という謎』(白井仁人、東克明、森田邦久、渡部鉄兵)がある、と。