●昨日の日記でリンクした動画「量子コンピュータの歴史」がおもしろくて三回繰り返して観てしまう。この話を聞くと、『世界の究極理論は存在するか』(この邦訳タイトルはまったくダメなタイトルだと思う)が、どんな考えに抗して(つまりどんな文脈の上で)書かれたのかが納得できた。
●まず、ランダウアーが提唱する「情報とは抽象的なものではなくフィジカルな(物理的な)ものだ」という考えがあり、それは、情報というものが物理的にはエントロピーと同じものとして考えられるという発見へと通じる。後者の発見は、量子力学情報理論として発展させようとする(情報理論から物理学を導こうとする)ホイーラーなどの流れを生む。だがこれは、物理的なものが基底にあって情報がある(情報は物理的過程である)というランダウアーの考えとは、いわば分子と分母が逆転していることになる。
ホイーラーの学生として近くにいながらも、ドイッチュはホイーラーに懐疑的だった。ドイッチュにとって物理学は情報ではなく実在に関するものでなければならなかった。また、ドイッチュは、世界はマクロな系では古典物理学に従い、ミクロな系では量子力学に従うという、物理の二重の論理を嫌い、宇宙はすべて量子的な過程でできていることと整合的であるエペレットの多世界解釈を支持していた。そして、それを証明する思考実験において、量子的な重ね合わせ状態のままで計算することのできるコンピュータのアイデアを思いつき、これが後に、結果として量子コンピュータを予言するアイデアとなる。
それとは別に、ランダウアーとホイーラーが共に参加した物理とコンピュータに関するシンポジウムがあり、そこでファインマンが、「コンピュータによって物理現象を正しくシミュレートするためには、現在の古典論的な計算原理によるコンピュータではなく、量子的に計算するコンピュータがなければならない」という講演をし、公的にはこれが量子コンピュータの可能性についてはじめて言及した発言とされる。
ホイーラーが主催した、上と同様な主題についての会議に参加したドイッチュは、物理を情報理論としてみる見方に興味が感じられず、こんなことは自然界の解明には関係ないのではないかという不満をバンケットの席でベネット(ランダウアーの同僚)に漏らす。それに対してべネットが「でも、計算の基本操作というのは物理的なものである(数学的に天下り的に与えられるものではない)」と返した(いわば、ベネットを通してドイッチュとランダウアーの考えが出会う)。ここで、ランダウアー→ホイーラーという流れで分子と分母が逆になったものが、べネットを介して、ドイッチュという場でもう一度逆転して元にもどる。
ここで「歴史に残る飛躍が起こった」と。そこでドイッチュは、ならば今のコンピュータの計算はすべて古典的な過程に過ぎず、(この宇宙がそうであるような)量子的な過程になっていないのはおかしいではないか、と思い、すべてのコンピュータの原理であるチューリングマシーンを量子力学的に書き直すことを思い立つ。そして短い時間でそれを実現する。それは、かつて多世界解釈の思考実験で考え出したコンピュータと基本的に同じ原理であり、言うなれば、多くの世界で一つの計算をシェアするコンピュータである、ということに気付く。量子コンピュータ(の多世界的解釈)は、多世界にある分身である量子コンピュータたちに計算を分配し、多数の宇宙で同時並行的に計算し、多世界の相互干渉によって最終解を得る、ということになる。ドイッチュにとって、量子コンピュータの実現は、そのまま多世界解釈の証明となる。
ここで重要なのは、ドイッチュにとって量子コンピュータは、何かの役に立てるためにとか、計算量を飛躍的に増大させるような技術的な野心のためにという、実利的な目的で考え出されたものではなく、あくまで自然界の(この宇宙の物理的なありようの)探求の一環として、その課程で、その論理的な整合性(量子論の一元化)がかけられたものとして、考え出されたものだということだ。
ドイッチュの量子コンピュータについての論文は81年には書き上げられ、ペンローズなどと議論を重ねた上で85年に発表されたが、ほとんど反響はなかったという。実利が目的ではない「量子コンピュータ」というものを考えることの意味が、ほとんどの物理学者には理解されなかった、と。量子コンピュータの研究がさかんになるのは、その具体的な実現可能性と、実利的な計算能力の増大とが見通せるようになる94年からだという。ここは、何かを実現させようとする技術的、実利的な探求と、この宇宙のありようそのものを知りたいという探求というズレがある。
(それは、昨日リンクした二つの動画、「量子コンピュータの歴史」と「量子の制御とコンピュータ」との、関心の軸足の違いとしてもあらわれている。)
実際に量子コンピュータの実現にかかわっている人たちにとっては、ドイッチュのモチベーションにある、「情報は抽象的なものではなくフィジカルなものだ」とか、「多世界解釈量子論の一元化)」とか、「実在のファブリックの探求」だとかいうのはどうでもいいことなのだろうと思う。「哲学」はともかく置いておいて、何がどのように実現できるか、あるいはできないかだ、と。もちろん、これはどっちがえらいという話ではなく、こういうのって、なかなか一人の人間のなかでは両立しないものなのだなあ、と。
●ここでおもしろいのは物理(実在?)と情報(抽象形式?)の関係で、この両者が決して切り分けられない形で絡み合い、密接に関係しているということは量子論によって間違いないとして、にもかかわらず、ランダウアー-ドイッチュの流れと、ホイーラーの流れが裏表(分子と分母の逆転)のようになっていることだろう(ドイッチュの本では、ホイーラー的な傾向への批判に多くの部分が費やされていると思うのだが、その部分が、このような文脈がわからないとわかりづらかった)。
エントロピーと情報とが同じものとして考えられるという事実(これは確か、佐藤文隆の本にも書かれていた)が、物理の情報化へつながるのか、情報の物理化へつながるのか、という風に分かれるところが面白い。