●おーい、おーい、おーい、という遠くから呼びかけられるような声で目が覚めた。すぐ外で工事がはじまっていて、トラックを招き入れる、オーライ、オーライ、オーライ(というより、オラーイ、オラーイ、オラーイ)という声が聞こえていた。
●メモ。『アインシュタインの反乱と量子コンピュータ』(佐藤文隆)に書かれていた、多世界論を最初に主張したエヴェレの生涯。
大学院の学生だったエヴェレは1956年に博士論文として多世界論についての論文を書いた。担当教官だったホイラー(量子力学と核物理学をアメリカに移入した一人であり、ファインマンの担当教官でもあった)は、その論文を読んで当惑し、そして審査会の教授連中には理解されないと判断して、この論文の刺激的なところを刈り込んだ(もともと137ページあった論文が30ページ程度になった、と)。その結果、問題なく審査はパスしたが、逆に何の反響もなかった。論文の革新性に自信をもっていたエヴェレは落胆し、アカデミズムの世界を離れ、軍需産業やコンピュータ関連のベンチャーでそこそこ成功した(大成功というほどではないらしい)。
一方、オリジナルの(137ページの)論文を読んで、それにほれ込んでいたデュ・ウィットは、エヴェレの主張が一向に注目されないことに業を煮やし、エヴェレのオリジナル論文を中心とした「多世界論」についてのアンソロジーを1970年に出版する(論文が書かれてから既に14年経っている)。この出版によって、「多世界」解釈は、研究者の間だけでなく、SFやポピュラーサイエンスの本などを通じて広く一般にまで知られるようになった。
1977年、エヴェレはホイラーとデュ・ウィットが主催する「人間の認知とコンピュータの認知」という会に招待され、久しぶりにアカデミックな場に顔を出すことになる(論文から20年以上経っている)。そこで、四時間にもおよぶ大講演をした、と。そして、その会で、デュ・ウィットの紹介によって当時大学院生としてホイラーのもとにいたドイッチュと出会った。ドイッチュは後に、≪「解釈問題」から長くはなれているエヴェレが自分とともにいきいきと議論してくれるのに驚いたという印象を語っている≫、と書かれる。
これをきっかけに、エヴェレはアカデミックな世界への復帰を考え、ホイラーもそれに協力したが、間もなく健康を害し(チェーンスモーカーだったという)、82年に亡くなってしまう。まだ、52歳になる半年前だった、と。