●ぼくは観逃してしまったので人から聞いた話だけど、「サイエンスゼロ」で、ロボットの身体制御に関する画期的なアルゴリズムが開発されたという話題をやっていたらしい。人は、例えば右腕を挙げようとする時、それにあわせて体の軸をやや左に倒したり、左足にかける体重の割合を増したりという風に、体全体のバランスを無意識のうちにとる。それと同様に、「右腕を挙げろ」という一つの命令を与えただけで、ロボットが体全体のバランスを丁度いいように自動的に調整するようにするアルゴリズムだという。ロボットが走ったり、踊ったりできるようになる? 番組では、ロボットがユンボを操作する映像が流されていた、と。
「ロボットがユンボを操作する映像」というのがまさに端的に示しているのだが、この技術から予想される事実は、土木作業員など、いわゆる肉体労働をする人のたちの大量失業ではないか、という話をした。このような技術がまず目指すのは、原発事故や災害現場など、人が作業することが危険だったり困難だったりする場所での作業であるだろう。それはとても重要なことだ。しかし、それと「同じ技術」はそのまま、当然、今は人間が(生活のために)行っている仕事を奪うことも可能だ。
「機械との競争」という話題になった本には、「専門知識を必要とする事務的作業のような仕事」(例えば、裁判のために大量の資料を読み込んで必要な情報をピックアップする、というような仕事、このような仕事ではコンピュータ一台で五百人分くらいの能力があるという)は、次々になくなってゆくだろうということが書かれているが、一方、創造的な仕事や肉体労働は、まだまだコンピュータには難しいとされていた。しかしその認識は、残念なことに少し甘すぎるようだ、ということになってしまう。技術的なブレイクスルーが一つあると、状況はまるっきり変わってしまう。
(例えば、「顔認証」技術は二十年前には夢の技術で、それはコンピュータに出来ないことの代表のようなもので、いつになったら出来るようになるのか見当もつかないものだったという。しかし、2006年くらいに画期的なアルゴリズムが開発されて、コンピュータは既に人よりもずっと高い精度で顔の同一性を認識するのが当然となったという。顔認証が可能ならば、様々な形態での画像のパターン解析も可能なはずで、例えば医者がレントゲン写真から病気を発見するというようなことを、機械が医者より高精度でできるようになるのも不可能ではないはず。それ自体はすばらしいことだが、その結果として医者の何割かは失業する。)
●景気は上向きだとしても、失業率はどんどん上昇する(本当に優れたごく一部の人、あるいは過酷な競争に生き残った――多くの人を平気で蹴落とした――ごく一部の人にしか仕事がない)、みたいな世界がマジですぐそこにあるのではないかという気がしてならないのだが(そしてその原因は、グローバル資本主義というより、より直接的には技術進歩だと思えるのだけど)、この妄想が世間知らずの者の杞憂であってくれればよいのだけど。
量子コンピュータの原理を最初に考えたドイッチュは、科学というのは、要するに世界を最もよく説明する体系のことなのだという(『世界の究極理論は存在するか』7章)。この場合、「よい」というのは、最も包括的で、最も整合性の精度が高く、最も原理がシンプルである、というようなことだろう。科学は、実験や観測から帰納することで証明されるものではなく、ライバルとなる学説の全てよりも自分の方が優位であることを示すことによって認められるという。実験や観測は、どのライバルの学説よりも自分が優位であることを示すためにあるのだ(つまり、それ自体が何かを証明するものではない)、という。科学は、自分で自分を正しいと証明することはできない(その根拠はない)が、それよりも「よい」説明が他にないので、それを採用する(そう考える)のが最も合理的であるような説明の体系である、と(だから、「明らかに間違っているように見えるのに、それを論理的に否定することが原理的に出来ない例」を挙げて科学的体系の根拠の危うさを示そうとする懐疑論は、「よい説明」への貢献は何もないから意味がない、と)。それはだから、「今のところ最もよい」ということで、いつ、覆されるかは分からない。
ドイッチュの言うことが正しいとすれば、科学とは、現時点で他の全ての競合者を蹴落とすことが出来ている「最も強い一」であることになる。そして、技術というものが科学を基礎とするのならば、技術もまた、「最も強い一」を指向することになるのではないか。そうだとすれば、技術的な社会は必然的に、「最も強い一」だけが生き残る(あるいは、「最も強い一」にすべてが吸収される)という方向へ進んで行こうとするのではないか(しかしその「強力な一」は安定したものではなく、それを上回る、より包括的な「さらに大きな一」によって乗り越えられ、塗り替えられるという運動を際限なく繰り返す――ポパー的なパラダイムの転換――ことになる、グーグルやアマゾンでさえ安泰ではなく、もっと大きな「一」に吸収されてゆく、とか)。これは、素朴に考えれば生物が向かう多様性への方向とは逆向きという感じにみえるけど。
●とはいえ、多様な「モノ」たちのネットワークに関わる技術は、そもそも「多」への指向性を内包しているのだ、と「考える」ことはできる。それが具体的に(「一」へ向かう強力な力に対して)どう「効いて」くるのかは、それこそ具体的な場面や出来事をみてみないと分からないが。
(例えば『アニメ・マシーン』という本には、アニメーション・スタンドという装置によって多平面的な運動が生まれるという「他者創出(ヘテロジェネシス)」について書かれていたが、そのようなことは社会的な場面でもみつけだすことができるのか。というか、そのガタリ的な「他者創出」は、社会的な場面で「一」へと向かう力に拮抗できるものなのか。)
というか、技術はそもそも「多」へと開かれているし、それは放っておいても多様なモノたち(差異たち)を次々と生産するのだけど、それと「人が(生活できる程度の)お金を得る」こととがなかなか結びつかなくなる、ということなのか(多様性=情報が過多になることにより、例えばコンテンツが増殖しすぎて限りなく無料に近づき、インフラを整備した人のところにばかり集中してお金が集まる、という傾向に現状でもなってきているという、アマゾンは膨大なロングテールによって利潤を挙げるが、ロングテールの一つ一つのコンテンツはあまり儲けにならない、みたいな)。となると、「最も強い一」に向かっているのは、やはり「お金」ということなのか。
●この「最も強い一」の強力な技術的表象として現在あるのが「強いAI」で、つまり、意識を持ち、人間より高い知能をもった人工知能が出来て、自力で自分自身をより良いものへと更新するようになると、AIは想像を絶する速度で自分を進歩させるから、人間はAIに永遠に追いつけなくなり、完全に支配される、という(近)未来の描像だろう。