ブリヂストン美術館のデ・クーニング展。浪人時代(もう30年近く前になるのか!)のぼくにとっては、ゴーキーとデ・クーニングとポロックが神だったのだけど(セザンヌマティスに目覚めたのは大学に入ってから)、だからこそ逆に、今観てもどうなのかという今更感があって、デ・クーニングじゃなくてフランケンサーラーが観たいんだけどな、とか思いつつあまり期待せずに観に行ったのだけど、これがすごく良かった。地味で小さな展覧会ではあるけど。
ポロックはどちらかというとひろがりよりも深さ、散逸よりも合一を指向している度合いが強いようにぼくには思われるのだけど(水面は平面だけどその奥に深さを感じさせる、というような意味での「深さ」)、デ・クーニングは、横や斜めにズレてゆくことや、断絶や断層を露呈させるという指向性が強いように思われる。デ・クーニングが人体のイメージに強くこだわるのは、人体はかなり切り刻んでもなお「人体」に見えるからで、だからこそズレや断層がきわだつというとではないだろうかと感じた。それは、ポロックが、個々をみると、蛇行し、飛び跳ね、散逸するような線や飛沫から、その集積、響き合いとして、深さや調和(合一)を見出そうとするのと、ちょうど逆向きの方向であるように思う。
50年代のドローイングが、まだ「ちゃんとした線」を引こうとしすぎていて、それでかえって、右利きのストロークの手癖が画面の構造を決定してしまっているような感じが出てしまうのに対し、60年代後半の作品は、一つ一つのストロークの運動の掴みどころがよりなくなり、しかしそれでいて全体でちゃんと人体に見えるようになっている。ストロークは、人体のイメージに従属しつつも、人体の連続性の裂け目を開き、別の何かへ逸脱してゆくものでもある。
作品を観た印象として最初に浮かんでくる言葉は「冴えてるなあ」というもので、おそらく、ストローク同士の関係は直観的に短時間で殴り描き的に構築されているのだろうけど、その時の感覚の解像度が半端ではないので、手癖感がなく(パターン認識的に類型化しにくくて)、あらゆるストロークに「異なった表情」が込められているように見える(通常、殴り描きから見えてくるのはその人の手癖の単調な反復だ)。
とはいえ、ストロークや絵の具の表情としては冴えているデ・クーニングも、形態的にはけっこう強い手癖感が見えることがあって、形態が強く前に出てくる作品だと、ああ手癖だなあと思って退屈してしまうこともある。
●何度も書くけど、ブリヂストン美術館の常設はすばらしい。これは、たんに質の高い作品が並んでいるということともちょっと違う。飛びぬけてすごい作品ばかり並んでいるというわけではないし、どちらかというと地味な感じなのだけど、絵画に対する信頼や確信が揺らいだ時に、それをとり戻させてくれる何かがここにはある、という感じ。
それで思うのは、ぼくにはやはり「絵画」というのは基本として「西洋近代絵画」なのだなあということで、いくら「アニメが好きだ」とか言っても、そこはあまり変わらない(変れない)のかなあ、と思う。
●タリオンギャラリーの二艘木洋行を観て、うろたえてしまった。これはちょっとすごいのではないかと思った。二艘木洋行の作品は、今まで二、三度くらいは観ていると思うのだけど、正直、ぼくには何をやっているのかよく分からなかった。でも、こういう風にして観せてくれると、ぼくにも反応できる感じになる。モダニズム的な呪縛から完全に切り離された新しいメディウムスペシフィックというか、メディウムを横断する行為そのものがメディウムとなっているというか。そして、作品内のイメージ操作の複雑さにも驚かされた。美術というものが内包する、今までぼくが知らなかったポテンシャルを見せてもらった感じがした。
ぼくには、この作品について的確なことを言うための語彙も教養も今のところ足りていないのだけど、これがかなりすごいことは間違いないと思う。
この作品を「観る」ためには、相当に知力と体力が必要だと思うのだけど、いくつも展示を観て最後に訪れたので頭も体もけっこう疲れていて、イマイチ、喰らいついて噛み砕くという感じまで迫っていけないまま帰ることになってしまった。元気な時にもう一度(今度は一番最初に)観に行きたいと思うのだけど、時間があるだろうか。
●バスハウスの中西夏之は、ぼくにはダメだった。