●国立近代美術館で「泥とジェリー」展。着いたのが閉館まで一時間を切っていた時刻だったので、工藤展もコレクション展もスルーして「泥とジェリー」を観る時間しかなかった。
2000年代はじめくらいの時期の岡粼乾二郎の作品は圧倒的にすごいということを改めて思った。セラミックと石膏の彫刻は2001年に京都芸術センターで観て以来だけど、改めて面白く感じて、そしてこれはほとんど変態といっていいくらいひねくれた作品だと思った。こういう言い方をすると気を悪く人もいるかもしれないけど、そこには変態にしか分からない淫靡な味わいがあると思う。
岡粼乾二郎の作品は「どこ」にもなくて、それはただ、様々なメディウム、様々な形態、様々な現われの間に張り巡らされた変換関係の網の目であり、またそこで変換作用を駆動している、主体のようなそうでないような作用「X」としてだけある。その作用「X」は、作品を組織化するなにものかであり、変換作用を駆動する動力でもあり、作品を受け取る(作品作用と同期する)なにものかでもある。
だから作品を観る者は、自身の感覚器官を最大限に開いて感覚情報を聴取すると同時に、そこで構成された現前(感覚)をいったん括弧にくくって、様々な変換関係を精査するアルゴリズムへと送り出さなければならなくなる。それは、あらゆる感覚的具体性(色、形、触感、くにゃっ、とか、ぺちゃっ、とか、むにゅっ、という感じ等)をいったん語彙として(具体性を非現実的に解体して)、抽象的な形式の組み替えや生成の場へ投げ込むということになるだろう。感覚の具体性を言葉や記号として解釈するというのではなく、具体性がそのまま語彙として扱われる。
言葉で書くと難しいことのようだけど、例えば、おそらく人は音楽を聴く時には普通にそういうことをしている。聴く人は、あるメロディが高さを変えて他の楽器で反復されるとか、変形され展開されたりする、その変換過程のなかに入り込む。ある楽器の音色と別の楽器の音色が対比的に使われたり、ギターの弦が擦れる音や、漏れる吐息もまた、具体的抽象物となり、音楽の一部として組み込まれる。あるいは、ミュージック・コンクレートなどでは具体音が具体性から切り離されて、別の音との間に別の関係がつくられる。ただ、音楽の場合は時間があり順番が決まっている(楽譜上は決まっていないとしても、実際に演奏すると順番が決まってしまう)から、聴く人はその順番に導かれるが、絵画や彫刻の場合、どこから入って、どこに移り、どこから出てゆけばよいのかが明示されない。
で、岡�啗作品の何が変態的かというと、そのような作品を構成する語彙としての「具体性」として、彫刻ではチューブから押し出したばかりの絵の具のような生っぽい形の粘土、絵画ではべちゃっとした絵の具によるブララッシュストロークという、作家の身体性やフェティッシュ(物質感)を強く喚起するような要素をわざわざ用いていながら、そこからほぼ完璧に身体性やフェティシズムの刻印を消失(蒸発)させてみせるという手続きを踏んでいるところ。つまり、ここで変態性というは、非直接的な接触感というようなもの(直接的に触らないでわざわざ遠回りする、みたいな感じ)。一見、あからさまに際どくエロい素材を用いつつ、そこからエロさを蒸発させてみせるという、そのやり方の具合がなんともエロいのだ、というような三回ひねりの技。
(例えばデュシャンは、一見まったくエロくない無機質なもののなかに強烈なエロを発見するのだが、ここではそこからさらにもう一回ひねりが加えられているように思う。)
何故そんなまわりくどいことをするのかという問いに、それが「批評性」なのだと言えば通りはよいけど(現前性の暴力への批判というようなことは当然あると思うのだけど)、でもそれはきっと変態の変態たる味わいなのではないかと、セラミックの彫刻を観て思ったのだった。ひねりすぎるほどにひねったところに、ちょっと見ではさくさくつくったようにしか見えない感じで、分かる人にしか分からない非常に高度な計算や技巧を仕込んでおく。これは、放蕩に放蕩を、贅沢に贅沢を重ねてそれに飽いた好事家が辿り着くような地点にも近いように思われる。
(特別な能力や努力がなければアクセスできないものに対して「閉じている」と批判するのは間違っているとぼくは思う。)
いや、変態性という言い方はものごとを矮小化してしまっているかもしれない。それは、もし、(既に豊穣な成果のある)モダニズム=フォーマリズム系の仕事を引き継いで行うとするならば、ここまで極端で複雑なことをやらないと、もうどうしようもないでしょうという見識でもあると思う。もっと言えば、分かり易く単純なことを単純にやってゆくような退屈さにはとても耐えられない、ということでもあるではないか。
●こういう感じを、(モダニズム系の)ある種の袋小路や行き詰まりだと感じる人もいるかもしれない。関係ないけど、「スコラ」に出ていた浅田彰が十二音技法の音楽について、こういうものは頭でっかちなものとして毛嫌いする人も多いと思うけど、よくよく聴いてみると、機械的にごちゃごちゃしているようなもののなかに強烈な情緒(絶望や虚無)が入っていて、ちょっと、たまらなくいいものですよ、と言っていた。この感じは、特に2000年代はじめくらいの時期の岡崎作品の感じととても近い気がする。注意深く観て、考えてみれば、「ちょっと、たまらなくいいもの」だということが見えてくると思う。
●それにしても、技術的な問題としても、ブラッシュストロークや粘土を用いた作品をつくって、こんなにも見事に、手仕事感、手癖感、情感、作家の身体性の刻印、を消してしまって作品を成立させられる作家は他にはいないのではないかと思った。出力された結果(効果)から、その過程や原因(作家)が遡行できないという感じ。明らかに、粘土を手でくにゃっと曲げたりひねったりヘラで断ち切ったりして作っている作品なのだけど、でも、出来上がりの佇まいは、まるで数理的に計算して出来た設計図をもとにして3Dプリンターでつくった(まったく手からも制作過程からも切り離されている)かのようなものにも感じられる(「焼く」という過程が入っていることも大きいかもしれない)。自然でもなく、機械的でもなく、手技的でもない。(変態的である…)
いくつかの定められた「行為」が下ごしらえされた食材のように準備されてあって、その「行為」の組み合わせのバリエーションによって作品は生成され、生産されるのだろうと推測される。そこで、身体的な「行為」の組み合わせが、ある具体的な形態をもった作品へと変換される。この時、身体的な行為と作品とは、ある変換関係を媒介として等価であると言える(「=」で結ばれた式の左辺と右辺である)。同時に、行為は消えてなくなり、出来上がった作品とその過程である行為との間に、直接的に見て取れる痕跡は残らず、秘密の変換関係のみが密かに両者をつないでいる(左辺から右辺へ至る途中の式は示されない)。位置エネルギーが速度エネルギーに変換されたとしても、速度エネルギーは位置エネルギーに少しも似ていない、というような関係。そして、作品を観るという行為は、結果としての右辺を観ることでも、左辺へと遡行することでもなく、それらと「=」で結ばれ得る様々な、可能な別の変換式へと自らが成ることだと言えるのではないか。
それは逆から言えば、「身体(過程)を消すこと」に対するとても強いフェティシズムとエロティシズムが働いているようにも感じられるということだろう。なぜ、べちゃっとした絵の具、ブラッシュストローク、粘土、が要素として選ばれるのかといえば、そこには美術史(近代絵画、抽象表現主義)に対する一種のアイロニーがあるのだと思うけど(このレベルではポップアートに近い)、でも同時に、メディウムに対するフェティシズムも恐らくとても強くあって、しかしその最初に作動するメディウムへのフェティシズムを完全に消してしまいたいと言う、第二のフェティシズムもある、という感じ。変態性の味わいは、このような複雑さと屈折から感じられるのではないかと思う。
●以下は、セラミックと石膏の彫刻について、13年前に書いたもの、
http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/okazaki.html