横浜美術館に百瀬文「サンプルボイス」を観に行く(二度目)。「The Recording」を三回繰り返して観たらさすがにちょっと飽きてきたけど、でも、これはやはりかなり面白い。
●「The Recording」には三つの層がある。(1)声=言葉=テキスト(2)実写映像フレーム(3)アニメ映像フレーム。この三つの層が、寄り添ったり、離れたりする。序盤は、声は主に実写フレームに寄り添い、次第に三つの層が絡んで複雑になり、終盤には逆転して、声が主にアニメフレームに寄り添うようになる、というのがおおざっぱな流れと言える。
●一見、声=言葉こそが作品の中心にあるようにもみえる。当初、声が実写フレームに寄り添っていることで、実写フレームこそが主で、アニメフレームは従であるように見えたのが、声の同期が移行したことで最後に逆転する、という風に、声との一致こそが映像の真正性を保証している、かのようだ。だが、この「百瀬さんと呼ばれる女性が声優の小泉豊にインタビューしている」という体の声=言葉は、それが前もって既に書かれたものであることが、実写、アニメ両方の映像によって仄めかされている(映像上の人物は、インタビューをしている風にして台本を読んでいる)。つまり、三つの層のすべてが、自分自身だけでは自らの真正性を保証できない。どれもが起源=現実(オリジナル)である資格を持てず、編集=構成=加工されたまがいものであることが示されている。ただ、ラストは、声=言葉に従う形で三つの層のすべてが消失するので、その点では声にやや優位があると言えるかもしれない(いや、そうではなく、最後に三つの層がすべて一致する、と言うべきか)。
●二つのフレームが横並びで同時に壁に投影される。実写、アニメ共に、フレームに向かって左に男性が座り、右に女性が座っていて、二人の真ん中やや後ろにマイクスタンドが立っている。アニメの人物は実写の人物をキャラ化したものであることは明らかで、ほぼ同じ服装と髪型をしている(微妙に美化されているところも面白い)。とはいえ、アニメにあわせて実写の人物が髪型や服装を揃えた(コスプレした)と考えることも出来なくはない(だから、どちらが起源かは分からない)。実写フレームの背景にはスタジオにある様々な機械類が映っているが、アニメフレームの空間はがらんとしているが、それ以外はほぼ同じような空間だ(あるいは、実写はスタジオ外―調整室―で、アニメがスタジオ内ということなのだろうか)。
●実写と声とが完全には同期していない以上(同期していたとしても原理上はかわらないのだが)、この音声が、実写フレームに映っている人物が発したものであるという保証はない。声はまったく別のところから来た可能性もある。つまり、実写映像が音声の起源とは言えない。
●つまり、この三つの層は、どれか二つ以上が同期した時にのみ、仮の(偽の)真正性、現実性が得られる。現実とは、妥当なものと判断(錯覚)されるモンタージュのことである。(とはいえ、声は常に、実写かアニメかのどちらかには同期しており、声=言葉のみが暴走することはないようだ。)
●そしてこの作品がとりわけ面白いのは、ここに「わたし」という現象の成立が主題化されているところだと思う。つまり、「わたし」とは、妥当なものと錯覚されたモンタージュのなかから浮かび上がるフィクションである、かもしれない、と。「わたし」が、「間違ったモンタージュ」として成立するとすれば(つまり、「わたし」という現象がそもそも錯覚であとしたら)、「このわたし(こちら側)」が、もしかすると「そこ(そちら側)」に出現することも可能かもしれない、と。
●声優が、インタビューに答える形で自分の仕事について語っている(という体で、台本を読んでいる)。これが、この作品によって示される事柄だと言えるだろう。
最初に声優が自己紹介をしている時、音声は実写フレームと同期しており、アニメフレーム内の人物は音声に対して無関心である(あるいは、取り残されている)ようにみえる。だが、声優が素の喋りではなく「声優としての声」を発した時、実写の人物=声=アニメの人物の三つの層が唐突にふっと同期する。それ以降、三つの層の音楽的で複雑な同期とズレが生まれるようになる。例えば、実写もアニメもどちらも声に同期しているが、実写とアニメとは同期していない(それぞれ仕草が違うとか)という場合があったり、あるいは、実写では喋っている側の人のアップが示され、アニメでは聞いている側の人のアップが示されたりもする。また、実写とアニメとで人物が同じ仕草をしている場合でも、微妙にタイミングがズレたりする(この時も、一体、どちらがどちらの模倣をしているのか、どちらが原因でどちらが結果なのか分からない)。また、眼がとても大きく描かれているアニメの人物では、実写とは大きく異なり、瞬きをするという仕草がとても強い表現性をもつことなどが気づかされたりもする。
●眼の表現という点では、実写の人物は、きわめて頻繁に、カメラの後ろ側(フレームの外側?)を気にするような不可解な視線を送っている。人物は、相手を無視しているわけではないが、相手を見るというより、ほぼ台本を見ながら喋っているように見える。だが、たびたび台本から眼を離し、チラチラとカメラの後ろ側辺りを気にしている。この、心ここに非ずといった感じの眼差しの効果が、この作品では非常に強く作用している。
●声優は、自分とキャラクターの関係についていろいろな話をする。例えば、自分が演じたキャラのファンになった女の子から見た時には自分の存在は消えてしまっているという感覚について、自分の見た目とキャラの見た目のギャップについて、あるいは、録音の現場では役になり切るというより、現場での諸関係のなかでの自分の位置取りを意識するということ、また、役になり切って向こう側へ行ってしまうのではなく、そのキャラのもつ視点を自分のなかで想像して演じるということ、など。
「例えば目の前にコップがあったとして、ぼくからこのコップを見た印象と、百瀬さんの側から見たこのコップの印象とは違うと思うんですが、その、百瀬さんから見たコップの印象を、ぼくのなかで想像して演じるというようなことですね」とか、なんとなくそういう感じのことを小泉さんが言った時に、映像と声との同期が、実写の側が主だったのが、アニメの側が主になるように逆転する。
そして、百瀬さんが、「自分と全然違うキャラではなく、ほとんど鏡で映したかのようなそっくりなキャラを演じるとしたら…」という問いかけをするところで、実写フレームはほぼ声との同期を放棄する。これ以降は、(まさに鏡で映した向こう側であるのような)アニメの側と声とがほぼ完全に同期する感じになって、実写の側はおいてきぼりをくった感じになる。人物は、ただ呆けたような無表情(ゴダールの映画に出てくるような無表情)をカメラに向けるばかりになる(カメラの後ろ側を見るような眼差しで)。
さらに、小泉さんの声が、「声優である時、自分の素の喋りは消さなくてはいけない、自分というものを消してしまわないといけない」というようなことを言ったところで、両方のフレームとも画面が真っ暗になって、スパッと切れて終わる(二つのフレームのなかの二人は消える)
●「わたし」とは、本来バラバラである複数の層が、たまたま同期した(現実として妥当だと錯覚された)ときに生まれ、しかもそれは、合わせ鏡のこちら側と向こう側とで、あっちに行ったりこっちに来たりと行き来できる。こっちが現実である(妥当性が錯覚される)とき向こうはフィクションであるが、向こうが現実となればこっちはフィクションとなり、現実の流れからはじき出され、おいてきぼりにされる。あるいは、こっちが「わたし」であるとき、向こうは「あなた」であるが、向こうが「わたし」となるとき、こちらは「あなた」となって、「わたし」から零れ落ちるだろう。