●『バケモノの子』(細田守)をブルーレイで観た。これは面白いんじゃないかな、と思った。
細田守の仕事としては、ぼくは『時をかける少女』と『サマーウォーズ』は正直嫌いで、『おおかみこどもの雨と雪』は、嫌いなところと好きなところがマーブル状になっていて、全体としては好きなところが勝っているという感じで、この作品については、はじめて嫌いなところがなかった(目立たなかった)。それで思うのは、細田守の作品には、強い求心力のようなものがない代わりに、異質なものを併置する不思議なバランス感覚と、それによって生じる多軸的時空があって、そこが面白いんじゃないかということだ。一つの座標のなかに要素を配置するというより、複数の座標を混ぜ合わせている感じ。
いわゆる野生児の物語といえて、人間界から捨てられてオオカミに育てられた少年みたいな類型の物語ということになる。前半が、バケモノに育てられる話で、後半が人間社会に復帰する話。だから最後には人間対人間の対決になる必要があり、それが主人公の人間界復帰のための通過儀礼となる。そして、その過程で主人公を育ててくれたバケモノ(父)は内面化される。バケモノが内面化されることで、主人公は完全に人間の世界の住人となる(バケモノの世界には帰る場所がなくなる)。
娯楽映画として面白くするには、バケモノの世界の話をメインにして、人間界への復帰プロセスはなるべく短く済ませた方がよいだろう。たとえば『崖の上のポニョ』で宮崎駿はポニョの人間化を「洞窟を通過する」という象徴的な表現でてっとりばやく済ませている。あるいは『千と千尋の神隠し』では作品のほとんどがバケモノの世界の描写で占められる。だが細田守は律儀に、「人間界への復帰の過程」を「バケモノによって養育される過程」と釣り合うくらいの重さで描く。つまり軸が二本になる。まずここに、求心力よりバランス感覚という特徴がでている。
異質なものを併置するバランス感覚はキャラクターの配置にもみられる。この作品には三種類の異質なキャラクターで構成されている。(1)リアルな人間、(2)デフォルメされたバケモノ、(3)現実から引用された狂言回し。
(1)は、従来通りの、少ない描線とフラットな色彩で描かれた細田守的なキャラクター。いわゆるアニメ的なキャラよりはリアルに寄せてある表現だが、過剰な描き込みや陰影によるリアルさではなく、的確に選択された少ない線、少ない色によって、モダンな感じで造形されている。声も、声優ではなく俳優によってあてられる。たとえば、成長した九太(蓮)を演じる染谷将太のやや舌足らずな感じなどは、声優には出せないリアリティとなっている。
(しかし、九太と対になっている人物---人間---である成長した一郎彦は、この作品では例外的にザ・声優といえる宮野真守によって演じられる。声質といい演技といい、高度に「声優」的なもので、九太と一郎彦の対称・対照性が鮮やかに出ている。この辺りにも、同一のパースペクティブ上の配置ではなく、背景の異なる異質なものを併置する細田守のバランス感覚を感じる。)
(2)バケモノたち、なかでも中心人物である熊徹に特に顕著に現れているのだが、彼らは昔のディズニーアニメのような、大塚康生の作画のような、あるいは手塚治虫の描く絵のような、とてもわかりやすい表情のバリエーションをもつ、古典的に擬人化された動物のフォルムをもっている。キャラクターの性格づけにしても、熊徹はとてもわかりやすい類型的性格をもっている。いかにもアニメ的な表情変化、いかにもアニメ的な動き。これは、人間を描く時の現代的な表現とはかなり違っている。下手をすれば水と油のように分離してしまいかねないこの異質性をつないでいるのは、独自のモダンな色彩のセンスであるように思われた。
(作品全体を通して、非常に高度でモダンな透明感のある美しい色彩設定がなされているが、一つのフレームを構成する色彩の配置の面からみると、画面の求心性、統合性は低く、ばらけた感じに設定されているように感じた。)
熊徹の声は役所広司によってあてられている。ここでは染谷将太とは異なり、映画俳優的なリアルさとは異なり、舞台俳優的な力量が発揮されているように思われる。子供にもわかりやすく「上手い演技」が要求されている。つまり、染谷将太宮野真守役所広司という配役は、同一座標上に配置されているのではなく、それぞれが別の背景(座標)をもった演技をしている。
熊徹はいわば、過去のアニメから引用されてきたようなキャラクターだといえる。バケモノの世界とは「アニメの世界」なのだという解釈は、わかりやすすぎてつまらないのだけど。
(熊徹が最初に現れた人間世界の渋谷の自転車置き場では、彼はかなりリアルな「獣」として描かれていたが、バケモノの世界ではマンガ的キャラになっている。)
(たとえば、一郎彦と二郎丸のキャラの違いは、兄弟の性格付けの違いによる対比的描き分けというより、そもそも造形の原理が異なっており、一郎彦がバケモノの世界では異質の存在であることは、初登場の場面からその容姿や身に着けているものから明らかだ。対して二郎丸は、造形的にも性格付け的にもみるからにマンガ的・類型的といえるだろう。キャラの造形によってネタバレしてしまっているとも言える。)
(3)百秋坊と多々良は、明らかにリリー・フランキー大泉洋だろう。特に百秋坊は、最初に登場した時からリリー・フランキーにしか見えなかった。あ、アニメのなかにリリー・フランキーがいる、と。つまり、リリー・フランキーをモデルにしたキャラクターの声をリリー・フランキーが、大泉洋をモデルにしたキャラクターの声を大泉洋があてている。ここでは、実在する有名人のキャラがほぼそのまま虚構世界に引用されていると言っていいのではないか。この二人は、人間(九太)とバケモノ(熊徹)をつなぐ媒介的人物であり、コメディリリーフであり、狂言回しである。このような、他のキャラとの位相の違いが、現実を引用することによって表現されている。つまりこの二人は、虚構内で成立している人間とバケモノとの対比とは「別のルール」によって存在している。
求心性よりも、異質なものたちを併置・配置するバランスによって作品を成り立たせるという意味で、細田守はモダンな作家なのだと思った。
●この作品は父と息子の話であり、熊徹と九太、猪王山と一郎彦という対になる二組の父子の(あるいは、二組の養父・養子の)物語であろう。しかし対になるという意味では、物語の当初からずっと母の影も濃厚にあり、不在としての母の存在感が、存在するバケモノの父と対になって強く作用している。九太につきまとって彼を見守る、白くて小さいマスコットキャラは、上記のどれとも異なる4つ目のカテゴリーで、このキャラは亡き母の影であって九太(蓮)にしか見えていないはず。そして、九太が蓮として人間界に復帰するための媒介となる楓という女性も、あきらかに母的な人物であり、母の代理といえる。バケモノの父は心に闇をもたないので(類型的なキャラ)、「闇の抑え方」を九太に教えることはできない。それを教えるのは人間であり母(楓)であり、それによって九太は「蓮」として人間世界に復帰できる、と。
(義父である熊徹には妻がなく、九太と同様「一人ぼっち」であり、その意味では二人は父子というより似た者同士の友人であるとも言えて、そのような熊徹が九太=蓮に内面化されることで「父」となるのは、楓という母的存在が登場したからだ、と考えることもできる。)
このような女性=母のあり方について何か言いたい人はいると思うけど、これはもう、細田守はそういう女性が好きなのだからということで、しょうがないのではないかと思うようになってきた。
(人間/バケモノ、父/息子、熊徹と九太/猪王山と一郎彦、父と息子/母と息子、九太/蓮、母/楓、人間の父/バケモノの父、白い鯨/黒い鯨、等々、この作品は様々な対で埋め尽くされている。)