2022/06/06

●『攻殻機動隊SAC_2045』のシーズン2を最後まで観た。ちゃんと終わっていた。以下、ネタバレしますので注意。

なるほど。面白かった。これを観て改めて、ぼくにとって攻殻とは、神山版攻殻のことなのだなあと思った。神山版攻殻が、押井守から引き継いだものは、「GHOST IN THE SHELL」の世界ではなく「パトレイバー2」の世界なのだ。とはいえ、このシリーズは今までの神山版の掟を破っている、とも言える。革命が成功してしまっていて、体制維持側にいる九課が破れてしまっている。しかし、九課が(あるいは人間が)ポストヒューマンに敗れたことを知っているのは、クサナギと江崎だけなのだった。

(ラスト、というか、九課に二人の新人が入ってくるという以降の場面をどう考えるかは難しいが、九課のメンバーが江崎のことを憶えていないということは、世界は元には戻らなかったということだと考えていいのではないかと思う。クサナギがダブルシンクにならなかったのだとしたら、ラストは、バトー主観の世界とも考えられる。)

最終回の一回手前で、考えられる限り最悪のバッドエンドだと思われる展開があり、それが壮大な夢オチによってひっくり返る。しかし、その夢はまさに現実であり、人々に夢のなかを生きさせる革命を、革命家が現実に成功させたということになる。いってみれば、『マトリックス』+『ハーモニー』のような、あるいは『ハーモニー』を数歩先までアップデートさせたようなオチと言える。

GHOST IN THE SHELL」でクサナギは、最後には「人形使い」と一体化し、別の存在に生まれ変わる。クサナギはクサナギではなくなり、いわばポストヒューマンと言ってもいいはずの存在として再-誕生していた。クサナギというポストヒューマンの誕生は歴史的な出来事であるはずだが、これはクサナギ自身にだけ起きた出来事であり、ある意味では、クサナギの個人的変化に過ぎないともいえる。だから「GHOST IN THE SHELL」は、実存の問題を扱った作品だと解釈される。神山健治はそれを、「パト2」的な革命家の物語(社会を変えようとする存在と、それを抑えようとする者の物語)に変質させて受け継ぐ(SAC)。革命家の物語である限り、九課が事件を解決するということは、革命が失敗するということだ。しかしこの作品では、すべての人間が「N」になることで(すべての人間に「GHOST IN THE SHELL」でクサナギに起こったのと同等の変化が訪れ)、社会全体というか、人類全体が変化する。

今までの神山版は、「GHOST IN THE SHELL」の設定を用いて「パト2」的な物語を語るということだったが、この作品では、「GHOST IN THE SHELL」そのものを社会化する(拡張する)ということが行われているのだと思う。で、その場合は、(「GHOST IN THE SHELL」でクサナギに革命的変化が起こったように)革命は成功してもよいのだ。だがその「革命」は、「パト2」や神山版攻殻がこれまで語ってきたようなものとは、まったく異質のものである必要がある。シマムラタカシは、(物語としてはとても近い) 「Individual Eleven」のクゼや『東のエデン』の滝沢のような政治的な存在からとてもとても遠い。彼が行うのは、テクノロジーを用いた(あるいは、テクノロジーによって導かれた)、非政治的、非革命的な、現実はそのままで経験だけを変えるダブルシンクという心身切断であり、それは政治的革命というより、まさに「脳内革命」だ。この革命では、人々は革命が起こったことを「知る」ことすらできない(江崎とクサナギ以外は)。人々は、物理的身体(物理的世界)としては「一つの現実」を共有しつつも、意識的な生としては、それぞれ別々の世界を生きる。

(クサナギは、「ネットは広大だ」という「GHOST IN THE SHELL」のセリフを反復するが、その意味が異なっている。)

これまでの神山版攻殻では、社会的なレベルで起こったできごとが、社会的なレベルで解決された。押井版の『イノセント』のように、「わたし(意識)」の迷宮には入り込まない。しかし今回は、社会的なレベルで起こったことが、それぞれの個人にとっての「別の(内的)現実」によって解決される。だがこれは、作品の(作家の)態度変更というより、テクノロジーによる社会(社会的可能性)の変化だといえる。現実として、それぞれの人が個別の生を生きることができる、ということが、テクノロジーによって想定可能になった。「Individual Eleven」のクゼは、人々の意識をネットに上げることで、一つの「共同意識」のようなものを実現しようと構想した。しかし、この物語のシマムラは、まったく逆に、一人に一つのそれぞれにとっての「別の現実」を用意する。それは、地球上のすべての人間の「内的経験」をシマムラが管理しているということであり、彼はまさにビックブラザーだ(彼は、人々の個別の「内的経験」のための不可欠なインフラ=下地であり、つまり「神」である)。これは、「Individual Eleven」がつくられた2004年の頃と、現在との「想像可能なユートピア(≒ディストピア)」観の変化を反映するものだろう。

この物語が、知らず知らずのうちに進行する、「すべての人に共有される一つの現実」から、それぞれの人に特化された「その人に固有の現実」への分岐の物語だとすると、(1)どの場面が「唯一の現実」であり、どの場面が「主観的現実」であるのか、ということと、主観的現実であるとすれば、(2)どの場面が、一体「誰」にとっての主観的現実なのか、とういう疑問が生じ、遡ってそれを考えるのもおもしろいだろう。とりあえず、手のひらに「核のスイッチ」が現れた時点で、その現実は主観的なものへと分岐した後の「現実」であるという指標になるが、トグサなどは、シーズン2のほとんどの場面が、既に主観的現実のなかにあると考えることもできる(トグサは東京の地下深くに原子力潜水艦を「発見する」のだが、それが「彼にとってだけの現実」ではないと言い切ることは難しい。「Nぽ」と疑われたトグサの逃亡を促す少女は、確実にトグサにしか見ていないはずだ。)。

江崎プリンが、一度死んで「ゴースト」を失った存在であることは、この物語の後半の「唯一の現実」の存在を保証するための重要な指標になるだろう。すくなくとも、彼女が経験する現実は、彼女の視点から切り取られた「唯一の現実」であるとは言える。