2022/06/13

攻殻機動隊SAC、「Individual Eleven」につづいて、「The Laughing Man」も観直した。新シリーズ「SAC_2045」では、物語の構えは「Individual Eleven」に近いのだが、犯人像は「The Laughing Man」の方に近いのだな、と思った。というか、クゼとアオイ(笑い男)を足して大幅にパワーアップしたのがシマムラタカシなのか。

この物語は社会的な話であり、「薬害エイズ事件」を下敷きにしているのは明らかだが、それはいわゆる「巨悪」の一例として下敷きにされているのであって、物語の主軸(というか、新しさ)はそこにあるのではなく、巨悪を暴こうとする、正義感をもつ青年の「闘い方」と「挫折」のありようの方にある。巨悪そのもののありようも、正義感の強い青年と行動とその挫折という物語もありふれているが、環境と条件が変わることで(テクノロジーの発達と天才的なハッカーとしての能力)、ありふれた物語がどのように変化するのか、ということ。

我々が使っているPCやスマホが常時ネットに接続されているように、我々の脳もまた、常時ネットに接続されているとしたら、脳をハッキングすることで、匿名の存在として振る舞えるし、透明人間にもなれる。そのような環境と条件があるとすれば、正義感の強い青年はどのように行動するのか。

これは、孤独な青年の「個」としての行動であり、政治的なアクションではない。そしてそのような「個」としての行動が、連帯としてではなく、模倣として、どのように伝播していくのか、という話でもある。その「模倣」のありようが一様ではないというのが、この物語の面白さの重要な一つだ。模倣者の種類は、大きく分けて次の五つあると考えられる。

(1)    青年の敵である「巨悪」の側が、彼の起こした事件を利用して(「笑い男」の名をなのり)企業テロを行い、身代金を得る。

(2)    警察が、(真犯人が捕まると「巨悪」が暴かれてしまうので)偽の犯人(「笑い男」)を仕立て上げる。

(3)    青年の行為や声明を自分へのメッセージだと受け取った不特定多数の人々が、自らを「笑い男」だと主張し、青年を模倣する行為をする。

そしてさらに、

(4)    青年からのメッセージを受け取ったクサナギが、意識的(戦略的)に「笑い男」を演じる。

(5)    青臭い正義感をもち、作中では青年の分身であるような存在であるトグサ(青年とトグサは同じ声優が演じている)が、無意識のうちに「笑い男」のような恰好をして、「笑い男」のような行動をとる。

物語の展開は、最初にあった青年の行動と、(1)から(3)までの異なるありようの模倣とが区別なく混同されていることで「謎」となり、公安九課の捜査によって、本来の「ありようの異なり」が次第に解明されていく。青年は、自らのとった「巨悪を暴く」ための行動が、逆に巨悪の側に利用され、彼らの利になってしまったとに失望し、自ら「口を噤む」ことを選択する。オリジナルである青年が沈黙することで、模倣者たちがいっそう蔓延り、「笑い男」はサブカル的な文化現象にもなり、それはますます「巨悪の側」には都合のよいこととなる。

(ネット環境下での、サブカル文化の描かれ方の新しさも、この作品の重要な面白さの一つだろう。)

口を噤んだ青年が再び行動し、語り始めることと、トグサの古い友人が彼にメッセージを残して怪死したことで、この物語は始まり、九課による捜査が始まる。というか、トグサが友人のメッセージを解読したことが、青年が再び動き出すきっかけとなったのだから、物語の発端には青年とともにトグサがいることになる。トグサが、自分で疑惑を発見したのではなく、友人からのメッセージを受け取ったのと同様に、青年の最初の行動も、ネットで拾った「他人が書いた告発メール」がきっかけである。彼らは二人とも、他者からのメッセージを受けて動き出す。

基本的に、(1)から(3)の模倣は、巨悪の側に都合のよいものだ。(1)の、自分の行為がその意図とは逆の効果をもってしまうという現象は、後に「Individual Eleven」のゴウダとクゼの関係に発展するだろう。(3)は必ずしも巨悪に有利だとは言えないかもしれないが、サブカル的盛り上がりも含め、(3)による混乱はむしろ巨悪の隠れ蓑になる。しかし、(4)はそれとは異なる。自分の非力さに失望した青年は、そのメッセージをクサナギ(九課)に託す。トグサが友人のメッセージを受け取り、青年が無名の誰かのメッセージを受け取ったように、クサナギが青年のメッセージを受け取り、青年(「笑い男」)を模倣する。これが巨悪の暴露につながる。

(このまますんなりと事件解決とはいかなくて、ここからさらに「九課の壊滅」という大きなヒトヤマがあるのだが。)

戦略的な「九課の壊滅」の後、義憤にかられたトグサが、無自覚のうちに青年を反復(模倣)することで、トグサと青年との同質性が、ラスト近くにさらに強調される(トグサは改めて『ライ麦畑でつかまえて』を読んでいるのだから、半ば自覚的かもしれないが…)。ここで、(3)の模倣者たちとトグサの模倣との違いはどこにあるのだろうか。(3)の模倣者たちが、リアルタイムの、時流に乗った模倣者であるのに対し、トグサは、場違いの、遅れてきた、アナクロニックな模倣者であるという点だろうか。

(トグサは、紙の本で『ライ麦…』を読んでいる。そして、青年は、出版された紙の本をすべて収蔵する図書館で働いている。このことと、まさに「ネット文化」的な「笑い男」の盛り上がりの描写とは対比的であろう。トグサは、「笑い男」が「紙の資料」を重要視していることを見抜いたのだった。クサナギは、青年の記憶を電子的に---有線で直接---受け取るのだが、トグサは「サリンジャーの小説」という、アナクロニックな媒体を通して、間接的に青年の魂---ゴースト?---を受け取る。)

追記。戦略的な「九課の壊滅」は、アラマキが首相とのネゴシエーションのカードとして用いたもので、食えない親父であるアラマキの老練な政治的な手腕を示すものだろう。この部分に、この後の「Individual Eleven」へとつながる、ポリティカルなフィクションの要素がある。この物語では、「巨悪の暴露」は、青年の青臭い正義感と、九課の実働的な荒事の能力と、アラマキの政治的な手腕との協働(スタンドプレーから結果として生じるチームワーク?)によってようやく実現可能だった、ということになる。ただ、現実的なこととしては、この三つはかなり相性が悪い感じがする(トグサの正義感がバトーに感染して冷静な判断力を失う、という場面があった…)。