2024/01/28

⚫︎神山健治の『永遠の831』をU-NEXTで観た。正直、あんまり期待していなかったのだけど思いの外良かった。「笑い男」や「個別の11人」のような大作ではなく、小さくまとめた感じで小粒ではあるが、久々に「神山健治」をひしひしと感じる作品で、ぼくには『攻殻機動隊SAC_2045』よりもこっちの方がずっと面白かった。ラストはありきたりのボーイ・ミーツ・ガールとも言えるが、これはこれでいいのではないかと納得できた。ただ、(ヒロインにしろ、新聞販売店の女性にしろ)女性キャラクターはもうちょっと工夫した方がいいのではないかとは思った。

神山健治は「SF」の人ではなくあくまで「社会派」で、社会の中で働いている権力があって、それに抗する思想犯的犯罪者がいて、その間のどちらともつかない位置に正義感を持つ青臭い若者がいるという構図があると生き生きするように思う。古臭い構図だとも言えるが、現代社会的な悪=権力があり、それに対する現代社会的な抵抗があるという形の新しさがある。ただ、この作品はその部分ではそんなに新鮮さはないが、青臭い若者の「怒り」が中心にあるのが新鮮だと思った。青臭い若者の怒りの部分が普遍的なのだと思う。

いきなり主人公が「新聞奨学生」で、「十九歳の地図」(中上健次)でも始まるのかと思ったが、あくまで現代社会の話であるのだが、それと同時にある意味では『十九歳の地図』でもある。「SAC_2045」では、怒れる若者がいきなり超知性になってしまうのだが、ここでは怒れる若者はあくまで怒れる凡庸な若者であり続ける(おそらく、あえて凡庸なところに着地する)。「攻殻」や『東のエデン』はゼロ年代で、ゼロ年代はまだ今よりは貧しくなかったので新聞奨学生が出てきてもあまりリアルには感じられなかったかもしれないが、今では一周回って「十九歳の地図」がリアルになっている、と。

この作品で思想犯=テロリストは、財務省の官僚の息子や娘で、そういう意味では彼らもまた「体制内アウトロー」でしかないのだが(首相とも顔見知りだ)、そこに、何者でもない主人公が絡んでいくというか、視点が、何者でもない主人公の側にあるというのが、「攻殻」とも『東のエデン』とも違うところだ。主人公は、「笑い男」におけるトグサのような位置にいると言えるが、公務員ではないし、ノブレス携帯も持たない。ただ、「怒り」に付随する「時間を止められる」という特殊能力によって、ほんの一瞬、体制内アウトロー接触するだけだ。

主人公の特殊能力は、当初、新聞代を踏み倒すというせこくて小さな悪に対して行使されるだけだが、テロリストと繋がることで物語が大きくなる。だが、彼は、大きな物語の中にいる者(テロリスト)に利用されるのであって、彼自身が大きな物語の中にいるのではない。彼は「大きな物語(テロリストの活動)」に対して懐疑的であり、この作品は、社会派でありつつ、社会派であることに懐疑的だとも言える。

「終わらない8月31日」というのはもちろん、「ビューティフルドリーマー」(1984年)や「エンドレスエイト」(2009年)が意識されているはずだが、バブル前夜である84年から、「終わらない」ままで、どんどん貧しくなって痩せ細っていく場所として、日本が舞台となる。とっくに終わっているのに、「終わっていない」と強弁して、「終わっていない」体を維持することで維持されている権力に、テロリストは「否」を突きつけるのだが、そのテロリストの行為もまた、決定的な「終わり」をもたらすものではない(結局、体制内アウトローであり、「終わらない」ことを前提とした行為でしかない)ということを、主人公は知る。

つまり、権力者側だけでなく、それに対抗しようとしているテロリストの行為まで含めて、「終わっている」という感触が、主人公にはある。その先で主人公は、決定的に「終わらせる」方向に動くのではなく、ボーイ・ミーツ・ガール(傷を持った者同士の共生)へと着地する。