●Netflixで『リコリス・リコイル』を観た。アニメを観て面白いと思えたのはずいぶん久しぶりだ。最後までちゃんと面白く、一定の納得を得られた。突出した傑作という感じではないが、日本のアニメにおいて歴史的に蓄積されてきたさまざまな達成があることによって成立している高度な作品という感じ。
日本のアニメでは、「美少女」という形象(イメージ)に、あまりに大きな負荷を負わせているし、あまりに強く依存してしまっているという問題があり、それをスルーすることはできない(世界の汚濁や毒を自己犠牲的に浄化する役割を期待されてしまっている)。しかし同時に、それによって可能になっている多くのことがあることも否定できない。この作品は、そのことに対する批評になっていると言えば言い過ぎだが、一種のアイロニーのようなあり方をしている。
この作品においてリコリス(≒美少女たち)は、世界の汚濁や毒を浄化するのではなく、単に「隠蔽」する。このような設定に、一定の反語的知性を感じる。彼女たちは、テロや凶悪犯罪を(非合法的に)速やかに処理して、その痕跡を消して、無かったことにする。それにより、「日本は治安がよく」、「日本人は平和的である」というイメージを社会的に定着させることが意図されている。その汚れ役をさせられている(強いられている)のが、戸籍を持たない孤児であり、幼い頃から殺人のプロとして教育されている十代の少女たちである(そんなことをしそうにない「少女」というイメージが、仕事の遂行や組織の隠匿にとって都合がよい)。そして、その幻想の皮膜を引き裂こうとするテロリストがそれに対立するという構図だ。
だがこの作品は、少女たちの犠牲が悲劇として歌い上げられているのではない(「まど★マギ」のようなものではない)。また、『A KAITE』のような、ハードな作品でもない。少女たちの犠牲性をさらに隠蔽するかのような、ゆるふわ、かつ、ポジティブな少女が主人公となっている(ゆるふわ、かつ、ポジティブな美少女のイメージは、ありとあらゆる「都合の悪いもの」を隠蔽する)。だからこれは、犠牲性や悲劇性の隠蔽と紙一重なのだが、この作品では(『サイバーパンク・エッジランナーズ』とは異なり)、ブラック企業的精神主義や、インフレ的な力の拡張への指向、セルフネグレクト的自己犠牲は肯定されないという態度が徹底されている。犠牲性や悲劇性が強調されない代わりに、それらが美しいものとして歌い上げられることが決してない。そこにも、この作品の「知性」を感じる。
主人公は、DA(リコリス)の下部組織に所属しつつも、ある程度の自由が許されている立場だ。一方で、選択の余地なく殺人マシーンとして育てられ、殺人マシーンとして生きることを強いられている少女たちがいるが、他方、主人公は、仕事を遂行するにあたって、決して人を殺さないし、自己犠牲的な行動を取ることもない(パートナーとなるもう一人の主人公にもそれを求める)。特権的な能力を持つことで特別扱いされているということだが、そのような彼女の「意志」が、美少女の自己犠牲、あるいはブラック企業的精神主義を歌い上げるような作品への批判となっているようにみえる。彼女は、一見、不都合を隠匿するゆるふわポジティブ美少女のようでありながら、その意志=思想によって、自らの所属する組織(日本のアニメ)の企業風土を拒否しているのだ。
(その反面として、作品として、権力関係に縛られ、強いられる犠牲的側面がやや軽くみられているということはあるのだが。)
もう一つ面白いのは、主人公のこの強い「意志」が「間違った約束」によって成立しているという点だ。これは、『少女革命ウテナ』の薔薇の刻印を想起させる。彼女は先天的に心臓に疾患を持つが、アラン機関という組織の提供する人工心臓により生き延びることができた。アラン機関とは、特別な才能を持つ者を支援する機関だが、彼女は、殺人者(殺人マシーン)としての稀有な才能を評価されて延命したのだった(アラン機関は、天賦の才能は個の選択や人の倫理を超えた神の領域のものなので、それがどのようなものであれ、能力を生かさないことは罪だと考える、ここには、主人公とも、システム=権力とも、テロリストとも異なる、また別の思想がある)。だが彼女は、人に与えられた命で人を殺すことはできないとして、自分がどんな窮地に陥っても相手を「殺さない」ことを強く意志する(同様に、与えられた命なので自らを犠牲にもしない)。つまり、他者からの贈与=刻まれた傷を誤読し、その誤って受け取られたメッセージが、彼女の彼女たる核(意志)を部分を形作っており、そのことによって、いわば「生きられた批評」として存在している。
(誤読を誤読と知ってもなお、その誤読の方を信じる。それにより自分の命を救った=彼女の信念を支える信仰の対象であるような「救世主」と敵対することになったとしても。)
人を殺さない、犠牲を歌い上げないという態度は最後まで徹底され(実は「殺さない」に関しては一部チートがあるのだが)、悲劇的な結末は避けられる。物語の在り方として、救えるものは可能な限り救うという方向を持つ。そして、誰かを絶対的な「悪」として指定することもない。主人公も、その敵であるテロリストも、それぞれ違ったやり方で(自分が置かれた「あり方」に応じて)「日本」という風土(≒システム)と戦っている。さらに、少女たちに犠牲を強いることで「日本」というシステムを維持しようとしている権力者たちでさえも、ギリギリのところで、ひとかけらの理もない完全な悪であること(リコリスの存在を隠蔽するために少女たちを皆殺しにすること)は避けられる。
殺人も自己犠牲も拒否し、さまざまな立場を相対化し、救えるものは可能な限り救うという態度の結果として、テロリストによる皮膜の引き剥がしは失敗し、全ては再び隠蔽され、相変わらず「日本は平和」であることになっている。これを、現状肯定として、権力(犠牲性)への批判の失調と評価することもできるだろう。しかし、これだけのことがあってもなお「日本は平和」であるというこの結末を、アイロニーとして苦く示していると共に、この作品においては、一見、最強の現状肯定派に見える「ゆるふわポジティブ美少女」こそが、「生きられた批評」として果敢に現状に抵抗していたことを忘れてはならないと思う。