●もう一度改めて『夜明け告げるルーのうた』(湯浅政明)を観たのだけど、最初に観た時よりもいろいろ細かいところにまで目がいって、さらにすばらしく感じられた。冒頭から既に半泣きに近い感じで最後まで観た。
これは「いまどきアニメのウケそうな要素全部のせ」とも言えるような作品で、そういうものは一見安全パイのようにみえて、実は、作品的にも興行的にも成功することは少ないように思われるのだけど(結局何をやりたいのかよく分からない感じになりがち)、この作品は(興行的にどうだったのかは知らないが)、ウケそうな要素の配置のバランスの良さが凡庸さや退屈さに陥らずに、端正な配慮としてあらわれていて、そこに、一つ一つの細部の充実が加わって(ぼくの「趣味」ではないものも含め、単純に細部のアイデアの量と質がすごい)、アニメの表現力というものを強く感じるような作品となっているように思う。
一話25分程度のテレビサイズではなく、90分以上の長編サイズのアニメで、演出のクオリティとして、この作品と並ぶような作品は(宮崎駿や『この世界の片隅に』などは別格とするとして)、『たまこラブストーリー』と『君の名は。』くらいしか思いつかない。
(いや、『夜は短し歩けよ乙女』とかだって、クオリティは高いのかもしれないのだけど、ぼくには先に拒否感が強くきてしまって、そんなに深くまで入っていけないのだ。)
湯浅政明に対する苦手意識を克服したこの勢いで、ネットフリックスとの契約が切れる前に(ネットフリックスオリジナルとして湯浅政明がつくった)『デビルマン』も観るぺきなのかもしれないが、こちらはまた拒絶の方が強く出てしまいそうな予感がしてしまっていて、観るのが怖い。
●比べるということではないのだけど(とはいえ、このように並べて書くと結果として比べることになってしまうのだが)アニメ版『打ち上げ花火、下から見るか横から見るか』は、最初の三十分くらいを観て、今後面白くなっていきそうな予感をまったく得られなかったので、興味を失って、そこで観るのをやめてしまった。
そもそも岩井版オリジナルをぼくは好きではないのだけど、そのオリジナル版にあった「際立った要素」(ぼくは好きではないが、このような要素に強く惹きつけられる人がいるということは理解できる、というような要素)がアニメ版ではすべて殺されているように思われた。
岩井オリジナル版を支えているのは、美少女の神通力と、それに対比される男の子たちのリアルなクソガキさだと思う。美少女の神通力は、彼女が「その場にそぐわない(身の丈に合わない場所にいる)」という強い違和感から発している。対して、男の子たちは身の丈に合った場所にいて(身の丈に合った同質的な仲間とだけつるんでいて)身の丈以外のことを知らない。女の子と男の子とでは、他の星の住人のように異なっている。しかし互いに気になってはいる(とはいえ「気になり方」が決定的に異なっている)。この非対称性が、基本的に男の子たちの側からみられたこの物語において、美少女に秘密めいた神通力を与え、あるいは、クソガキたちに無垢な(というかバカっぽい)少年性を与える。この非対称性(美少女が「一つの謎」として現れていること)がなければ、この物語は、物語を動かしていく動力もモチーフを失う。
(ぼくは、ここで描かれるクソガキたちの関係性が嫌なので、この作品を好きにはなれない。)
しかしアニメ版では、少女と少年の間に非対称性は感じられず、フラット=同等であるようにみえ、そして、男の子たちの同質的関係性(じゃれ合い)もリアルではないように感じられ(つまり、オリジナル版にある、ぼくにとっての「嫌さ」は消えているのだけど、その「嫌な要素」がなければ成り立たない話だと思うので)、この先、この物語が興味深いものとして展開されるようには思えなくて、観るのをやめてしまった。
(オリジナルが作られた93年当時ではスルーされても、現在では表現コード的にアウトなのではないかという要素については、上手く調整されていたと思うけど、それはたんなる調整であって、創造的な変更とは思えなかった。)
もっと先まで観れば、それなりに興味深い展開もあったのかもしれないけど、そこまでつき合う気にはなれなかったということ。