●『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』のオリジナル版(岩井俊二のやつ)がアマゾンビデオにあったので観てみた。ぼくももうけっこういい歳なので、「こういうのにやられちゃう人がいるのは分からなくもないけど、ぼくには面白くないなあ」という感想だけど、若い時に観たら拒絶反応で悶絶していたかもしれない。
今更観たのはアニメ版が公開されているからだけど(アニメ版はまだ観ていない)、これを今、アニメにして面白くなるのかなあ、と。この作品のキモは、実際にリアルな小学生(小学生ではないかもしけないけど、十代はじめくらいの子供)によって演じられているという生々しさと、この年齢時の奥菜恵の存在の特異性に支えられていると思う。実際に、千葉の田舎の小学校に奥菜恵のようなとびぬけた美少女は存在しないわけで、奥菜恵が空間にあきらかに馴染んでいない(ある意味、空間に亀裂を入れている)、その「座りの悪さ」がこの作品の緊張感の根本にあると思う。例えば、男の子の方もジャニーズのタレントとかが演じていたら、この「座りの悪さ」が消えて、均質で綺麗な「絵」になってしまう。だから男の子は、どこにでもいそうな生々しいクソガキ風でなくてはいけない。ウィキペディアでパッと調べたら、奥菜恵が79年生まれなのに対して、彼女に対してライバル関係にある山崎裕太と反田孝幸は81年生まれで、二つの年齢差がある。この年代で二歳差は大きく、これもまた、奥菜恵がこの作品空間のなかで「浮く」ようにするための仕掛けだろう。
(そういうところが上手いのだけど、その上手さが嫌というか……)
あるいは、例えば相米慎二の映画のなかで薬師丸ひろ子が躍動しているようには、この作品の奥菜恵は躍動していない(浴衣と大きなトランクで「動きを封じられている」という感じはちょっと面白い)。彼女はあくまでフォトジェニックな美少女であることで、この作品のなかで感傷を駆動させる装置になる。奥菜恵薬師丸ひろ子のように躍動してしまったら、映画の躍動感の方が感傷より強くなってしまうから、彼女は動きを奪われる(母親から逃げているところが、唯一「動いている」感じ)。多くの人は映画の躍動よりも感傷が好きだ。
オリジナル版「打ち上げ花火…」が感傷をつくりだすシステムは、最近のアニメ作品、例えば新海誠作品や「あの花」などが感傷を産みだすシステムと、一見似ているようでいて、随分違っているように思われる。例えば、アニメのなかに「アニメの美少女」がいても、空間は歪んだりしないし、アニメの美少女は動かざるを得ない。アニメ版の脚本は大根仁が書いているので、もちろん、そのあたりのことは充分に考えられた上で、再構成されているのだろうけど。
(あと、この作品が感傷を惹起するメカニズムとして大きいのは、五十分足らずであっさり終わってしまうという短さもあると思う。作品世界を充分に堪能するより前に、感情が充分に盛り上がるよりも先に、作品が終わってしまうので、おいておかれたままで解決されない感情が、作品終了後にも後を引く。)
今、これを作り直す意味があるとすれば、この物語が「世界改変もの」であるということくらいしかないのではないかと思う。この作品でちょっと面白いのは、この世界改変を誰が望んでいるのかよく分からないというところだろう。山崎裕太が、「オレだったら絶対に奥菜を裏切らない」という思いで改変を望むのか、奥菜恵が、「やっぱ山崎の方を選んどくべきだった」という思いで改変を望むのか。つまり、作品の後半の基盤が、山崎の妄想(欲望)にあるのか、奥菜の妄想(欲望)にあるのかよく分からないという構造になっている。そして、よくわからない、どちらもありだからこそ、あたかも「二人の思い」が一致しているかのような、うつくしい幻想が生じる。
とはいえ、最後まで観ると、この作品の欲望の主体は奥菜であるという感じの方が強いように思われる。一見、ホモソーシャルな男の子集団が主体で、奥菜がフォトジェニックな対象であるかのようにみえるこの作品世界だけど、実は奥菜の方こそが欲望の主体であったかもしれないという反転可能性が仕組まれている(選び、誘っているのは、奥菜だし、山崎の決断はただ男の子集団を裏切るということだけで、それ以外は奥菜の後をついてゆくだけだ)。この点が、かろうじてちょっと面白いかなあ、と。
(奥菜の動きを封じている大きなトランクこそが奥菜の欲望の外部記録装置であり、ウイルスでもあって、山崎が奥菜からそれを手渡されることで、奥菜にクラッキングされ、山崎の頭のなかに奥菜の欲望がロードされて、奥菜の欲望が山粼の妄想として動き出す、ということかもしれない。山粼は奥菜の転移に巻込まれた。と。)
そして結局、改変前世界でも、改変後世界でも、どちらの場合も反田孝幸は後悔することになる。とはいえ、こちらはこちらで、男の子たちのホモソーシャル的世界がうつくしく描かれてはいるけど。