●『境界の彼方』六話。シリーズのなかに一回くらいはある遊びの回。「あー、そうきたのか(笑)」、という感じ。呆れさせられながら感心させられた。ちょっと「フリクリ」のニナモリ・スカトロ回を思い出した。
学校の屋上にぷかぷか浮かんでいる、目だけが異常に発達した、臭い体液を女性キャラに向けて放出する、(睾丸みたいな形をした)醜いスケベな妖夢(怪物)というのは、明らかにクリシェとしてのいわゆる「アニオタの萌え豚」の形象化で、つまりこの回でやっていることは、作中に出現した観客の化身がキャラたちを体液で汚すという、AVの顔射みたいなことだといえる(とはいえ、この妖夢はペニスのような形ではなく、あくまで睾丸のような形をしているし、黄色く濁った体液は、精液というより排泄物のようなニュアンスなので、ファルス的、マッチョ的な感触は避けられている)。キャラたちは、妖夢−観客の臭い体液にまみれながらも、まるで妖夢の欲望に奉仕するかのように、くじけず何度もその視線の前に立ちもどり、その度に妖夢をよろこばせ(歌って踊ってみせたりさえする)、繰り返し臭い体液を浴びせられ続ける。そして最後までキャラたちは妖夢をやっつけることは出来ず、悔しがりつつ終わる。観客(の欲望)の分身を、醜くて臭くて無力なものとして貶めて描きつつも、そのような醜いものによって汚される美少女キャラたちの姿を描くことで観客にサービスするという、なんとも露骨で下品なことを、洗練された上品な演出と高度な技術でみせるというのは、どういう倒錯で、どういう自虐ネタで、なんと爛れた性的欲望の表現なのかと思う。すげーと思いつつも、うーん、でもこれなあ…、とも感じる。
これは、シャワーシーンがエロいとかそういう次元でのことじゃなくて(いわゆる「温泉回」や「水着回」のようなストレートなサービス回とはちがって)、キャラに対する象徴的な「凌辱」表現――「顔射」とかがそうであるように――だと思う。そしてこれは、オリジナルに予め織り込まれた二次創作的な要素の自己展開――同人誌がやりそうなことを前もって自分でやってしまう的な――でもあるという意味で、「作品を観る者の欲望」を取り込んだハイコンテクストな表現というべきなのかもしれない。いや、観る側の欲望というより、「観る側の欲望と作品との関係」が予め作品のなかに折りたたまれているというべきか。
(そもそもこの作品の四人の主要な登場人物のうち、二人の女性キャラはそれぞれメガネっ娘と妹で、対して二人の男性キャラはそれぞれメガネ好きと妹萌えなので、主要な人物の配置からして、既に作品内に「作品と観客の欲望の関係」が人物の関係として織り込まれているわけだから、今回の妖夢の設定はこの作品の設定そのものを戯画化したものだとも言える。)
このようなハイコンテクストのなかに織り込まれている複雑な感情(観客への皮肉であると同時に観客の欲望への象徴的な奉仕であるようなもの)には確かに味わい深いものがあるとは思う(それは観客への皮肉であると同時に、作品自身――深夜アニメのあり様――への自虐的皮肉=自己言及でもあると思うのだが)。
この作品にはもともと、張り巡らされた(閉じた)コンテクストを(ある種の皮肉――距離感――とともに)作品自身の内に巻き込んでゆくという傾向があるように思うのだけど(ただ、それだけなら多くのアニメ作品にある)、それだけではなく、同時に、その表現の強さによって内に巻き込まれているものを別の方向へ押し出す感じもあるように思う。
最初のところで「フリクリ」を想起させると書いたけど、「フリクリ」の場合も、性的な欲望と一体になったアニメーションとしての表現力は、予測不能で野放図な欲望の拡散の力となっていて、物語的な主題とは別の方向へと表現を開いてゆくような感じがあった。「境界の…」では、作品がアニオタ的なコンテクスト(あるいはお約束)を作品の構造としてその内側へと巻き取るようにして成立しつつも、同時に、表現のクオリティと強さによってそれを別の方向へと押し出す力をもっているように思われる。そのことが、この回ではいろんな意味で極端な形で出ていると思った。