●ペインティング(F8号)。





●『げんしけん二代目』六話。女子高でバスケ部に所属する男装女子高生が実はショタ好きとか、BL好きで腐女子に混ざりたいために女装する男の娘はリアルではゲイというわけではないけど、でもその男の娘はサークルの先輩(男)をBL妄想のネタにしているとか、その男の娘の「ココチン」がどうなっているか興味津々でそれを暴こう(覗こう)とする腐女子たちとか、サークルの先輩と自分の彼氏をBLネタにした妄想を絵に描いて自分でハアハアしているサークル会長(女性)とか、あきらかに人格的に問題がある暴走変態オタク男子(ヘテロだが「男の娘」を追いかけている)とかが出てくる話というと、どんなにどろどろですごいことになっているのか(あるいは、どんなにマニアックで痛々しい表現になっているのか)と普通は思うけど、それが、地味な普通の学生たちがサークルに集まってまったりと仲よくしているだけという状態と両立している。そこには、オタク的な、多重なレイヤーが相互陥入する虚構=現実のリアルな表現(多重見当識)がある。こういう表現が成立するというのはすごいことだと思う。岡崎京子内田春菊の作品が「とんがっている」ように見えた時代は過去になったのだなあとしみじみ思う(その「リア充」的作品に意味やリアリティがなくなったということでは勿論ないけど、少なくともそこに「尖がり」は既になく、ある種の「懐かしさ」が漂うようになっている)。
オタクというのは、一方で、欲望の多様性と過激さを実現し、その表現の自由を確保しつつ、他方で、現実の社会に(その「大人しさ」によって)ある程度順応することに成功している(「げんしけん」の登場人物たちも、普通に就職活動をして、就職してゆく)、そのような一つの生の様式のことだと言える。ある種の人は、それが消費社会に対して順応的であること、あるいはその行動(欲望の実現)が主に「消費」としてなされること(要するに政治性が欠如し、革命的とはなり得ないこと)をもって批判したりするのだけど、そのような批判はあまりに狭量であるよう、「げんしけん」のような作品を観ていると思われる。勿論、「げんしけん」が描いているのは(「二代目」は特にその傾向が強い気がするけど)あくまでユートピアであって、現実にはあんなサークルどこにもねえよ、オタクはもっと狭量で、あんなにオープンに他者を受け入れられやしねえよ、ということではあるだろう。でも、このようなユートピアが「構想可能であるというだけで十分にすごいと思う。
●とはいえ、「げんしけん」では同性愛が微妙に避けられている(排除されている)とは思うし、そこにちょっとした引っかかりがないわけではない。オタクのホモフォビア性というのは否定できない傾向としてあるかもしれない。
波戸くんは、BL好きで女装する男性だがゲイではない。サークルの先輩の斑目(男)と自分が絡む「ハト×マダ」を妄想してハアハアするが(「ハトマダありだな」と波戸くん自身が言う)、それは「ハト×マダ」という関係性に対して萌えている(その関係を外から見て萌えている)のであって、実際に、斑目と性交渉をもちたいという欲望ではない。
あるいは、朽木くんは女装する波戸くんを追い回すのだが、これは「こんなにかわいい子が女の子のはずがない」という言葉で表現されているような、一種のイメージのイデア主義のようなもの---女性的イメージ(かわいい)は決して現実(女の子)に着地するものではない---からくるのだから、朽木くんが追っているのは「女性的イメージ」であって、波戸くんが男性であることの意味は、彼が非女性であり、その女性的イメージ(かわいい)がどこにも根拠をもたない---故に純粋である---ということでしかない。
有名な大野さんの名セリフ「ホモが嫌いな女子なんていません」も、女子にとって「ホモ(男対男)」は萌えの対象(対象化された同性愛的関係性)であり、自分もその一部であるような当事者的な関係性とは切り離されている限りにおいて、それにハアハアすることができる、ということだろう。六話では、朽木くんが波戸くんを思うあまり斑目を襲うという暴挙に出るのだけど、これも、波戸くんが「斑目の受け」に萌えていると知ったから、自らが波戸くんの欲望の一部になろうとした(「クチ×マダ」であろうとした)ということで、朽木くんが斑目に対して直接欲望をもっているわけではない。
このように、「げんしけん」の登場人物たち欲望は非常に複雑に構成され、多様に展開しているけど、どれもヘテロセクシャル的な欲望の形(男性/女性という対)が基本形となって展開されていて、ストレートな同性愛的欲望の成分はそこにはあまり含まれていない(波戸くんのBL萌えはあくまで「女子」の欲望だろう)。
とはいっても、作品をつくるということは、欲望の公正な一覧表をつくるということとは違うことだけど。
●それにしても、朽木くんは「げんしけん」内でもっとも内省的な人物だと言える。彼は、「げんしけん」内の空気や流れとは外れたところで、単独で独自に思考し、その思考に基づいて独自のリズムで行動するから、他のメンバーにとっても、「げんしけん」内の空気や流れに沿っている観客にとっても、その行動はあまりに唐突で極端であるかのように見えるし、何も考えてなくて、たんに自分勝手であるように見える。しかし朽木くんは朽木くんなりに、出来事や他のメンバーから言われたことなどをちゃんと受け止めていて、そこからの反省に基づいて思考を巡らし、思考の結果に従って行動している。ただ、その思考過程やリズムがあまりに独自のものなので、「げんしけん」内文脈からはいつもズレてしまう。だが、それ故に文脈をかき回す効果がある。
朽木くんと逆の位置にいるのがスーだろう。彼女もまた「げんしけん」内の空気や流れから自律した、独自の行動様式をもつように見える。実際彼女は、物語の流れに深くかかわることはほとんどない。しかし朽木くんとは違って、彼女の少ない行動、少ない発言は、「げんしけん」内文脈のなかでは常に「的確に効く」ようになっている。ここしかないというそのタイミングで、それ以外ありえないという的確なことをする(言う)。
あと、矢島さんは、しばしば行動の意図と結果が逆になる。
●『ガッチャマンクラウズ』は面白いのに、その放送時に流れている実写版「ガッチャマン」の予告編からは、面白そうな気配が一ミリも感じられない。