●ドローイング





●地元のシネコンで『風立ちぬ』を観た。この面白くなさは何なのだろうか、というのが第一印象だった。面白くない=駄目だ、と言っているのではなく、「これは何なのか」という強い戸惑い。
勿論、宮崎駿だから、個別の場面や描写ではすごいところがたくさんある(飛行、地震、風、汽車、妹がバスのなかから菜穂子を見る場面、そしてもちろんメカ…等々)。全体のクオリティもとても高い。でもそれは、あくまで個別の場面としてすごいのであって、それらが相乗効果となって、作品としての流れやうねりが生じるということになっていないように思った。宮崎駿は、うねりというか、畳み掛けるようなグルーヴをつくってゆく演出をする人だと思うのだけど、この作品では、うねりを抑えて流れを淡々とすすめようとしていて、しかし、それに反して個々の細部はいちいち「跳ね」たがっているから、そこがぎくしゃくして、どっちつかずの感じ(跳ねかかっては、押さえつけられる感じ)になっているように感じられた。
例えば、二郎と菜穂子が婚約を決意する場面の、あの紙ヒコーキのやり取りの中途半端さ。今までの宮崎駿だったら、もっとすごいアクションをつくっただろうし、逆にあくまで淡々としたリアリズムの表現であれば、もっと少ない仕草で、もっと的確な表現を見つけ出すことになるだろう。それが、なんかこう、もっと跳ね上がりそうな予感はあるのに、割と中途半端に(ギリギリでリアリズムの範疇に納まる感じで)収束してしまう。二郎がベランダの柵を壊してしまう、その壊れ具合とか、とても中途半端に思えた。あと、二郎と菜穂子が再会する、パラソルが風で飛ばされる場面も、なんというか、もっとがんがんやりたいのに、この作品のトーンを考えて無理やり抑制してあの程度にした、みたいな半端感がある。
人があまり大きく動けないから、そのかわりに、風や雨や地震、飛行機や汽車、モブシーン、あるいは帽子やカーテンなどの表現をかなり大胆にやっているのだけど、宮崎作品は人の動きがクルーヴをつくるので、やはり人が動かないと…、という感じはどうしてもある。例えば、ぼくには二郎の会社での人間関係は紋切り型の類型表現としか思えないのだけど、彼らがもっと動いていれば、きっとそんなことどうでもよくなる。会社の人で一番魅力的だった黒川さんは、一番よく動く人物だった。
とはいえそれは、ぼくが観る前から「ハウル」や「ポニョ」のようなものを期待してしまっているから、そう見えるのかもしれない。とにかく、一回観ただけでは上手く呑み込めないような難しい作品なのだけど、しかし、今まで宮崎駿が「一回観ただけでは呑み込めないような難しい作品」などつくったことがあっただろうか。
●ちょっと仕切り直して、別の方向から考えてみる。
二郎と菜穂子が初めて出会うのは関東大震災の場面で、ここは一応リアリズムと言ってよいであろう形式で描かれる。しかし二人が再会する場面は何なのだろうか。菜穂子が、いきなりいる。よく分からない小高いところで菜穂子が絵を描いていると、その前をたまたま二郎が通りかかる。二郎が何故そんなところを歩いているのかは分からない。最初の出会いで、風で飛ばされた二郎の帽子を菜穂子がキャッチするのだけど、ここではその反対に、強風で飛ばされた菜穂子の日よけパラソルが二郎に向かって飛んでゆく。このパラソルは、二郎を突き殺さんばかりの勢いで飛んでゆく。二郎はまるで、風の魔女の呪いのターゲットにされたかのようだ(まずはパラソルの矢で貫かれ、次に森の奥の泉に招き入れられ、そのあと雨の洗礼を受ける)。この時点で、「ここ」が「どこ」なのか分からない。もしかすると夢の中ではないのかという非現実感のある場所だ。後になって、高原のホテルに来ていることが分かるのだが、このホテルがそもそも、話の前後とはほとんど関係なく唐突に出てくる(一応、後付け的な説明はつくけど)。しかも謎のドイツ人がいて、「ここはすべてを忘れる場所だ」とかなんとか言う。ここまで作品は、夢と現実という、明確に二つに分けられた層で進んできたのだが、このホテルはそのどちらとも雰囲気が違う。このどっちつかずの場所で、二人は結婚を決意する。
二郎がメガネの男であるとすれば、菜穂子は風の女だと言える。メガネの男の世界が、彼が「見る」夢の中だとすれば、風の吹くこの高原のホテルは風の女の世界に近いかもしれない。夢の中の世界にはイタリア人設計家(カプロー二)がいて、高原のホテルには謎のドイツ人---トーマス・マン?---がいる(ホテルのレストランで二郎と菜穂子が視線を交わすその間で、ドイツ人が皿にたっぷり盛られたクレソンを食ってる---雑草を食ってるようにしか見えない---場面は面白い)。現実が日本で、高原ホテルがドイツで、夢の中がイタリアと繋がっているとすると、きれいに日・独・伊となるのだけど、これは余談だ。
二郎と菜穂子が初めて出会った場面で、二郎は、菜穂子ではなく、彼女と一緒にいたお手伝いの女性を助けたのだった。この場面で、何故、二郎が助けるのが「菜穂子でない」必要があるのか。この時点では菜穂子はまだ子供であり、軽くて、彼女を負ぶって上野まで歩くことは二郎にとってそれほどは苦にならないだろう。だからここでは、重たい大人の女性を背負わせて、途中で二郎を転ばせ、二郎が今までの宮崎作品のヒーローとは異なる、ひ弱な存在であることを示すためだろうと、まずは言える。二郎は、メガネがなくては何も見えず、女性を抱えて走り回ったりするようなアクションには耐えられない。この作品では人物のアクションは封じられている。二郎が、コナンやパズーのような身体をもっていれば、メガネも計算尺も必要ないし、飛行機を夢見る必要もない(設計するのではなく、たんに乗りこなすだろう)。
だがそれだけではない。菜穂子は、二郎を家まで導くと、すっと消えるようにいなくなってしまう。まるで菜穂子などはじめからいなかったかのようだ。つまりここで、二郎の身体的な弱さが強調されると共に、菜穂子の非現実性も示される。その後、計算尺やシャツが学校に届けられた時に二郎が思い浮かべるのがお手伝いの女性であって菜穂子ではないことも、菜穂子の存在の非現実性を示している。彼女はとつぜん消える。そしてまた、突然現れる。初めて任された設計に失敗し、二郎が失意の時に、まるで付け入る隙を狙うように。
身体的な弱さによって、具体的な身体をもつことが強調され、地上に縛られる(故に常に飛行機を夢見る)二郎に対し、菜穂子ははじめから非現実的であり、風とともに高みにあり、身体性も希薄である。しかし、身体性の希薄である者が病気をもつとはどういうことだろうか。だが、はじめは菜穂子に病気の気配などまったくなかった。菜穂子の結核は、二人が交際を決意した後で唐突に告げられる。つまり、菜穂子は二郎と付き合うことになったから結核になる必要があった。結核によって二人の身体的な接触や接近は遅延され、菜穂子の身体の非現実性が保たれる。菜穂子は、二郎を誘惑しつつ遠ざける。具体的な身体の弱さ(メガネ)をもつ二郎に対し、菜穂子の弱さ(結核)はあくまで幻想的であると言える。二郎は地上で飛行機の設計をし、菜穂子はあらかじめ高い山の上(サナトリウム)にいる。あるいは、菜穂子はあらかじめ既に死んでいる。
だからこの映画の終盤は、風の魔女が山から下りてくるということなのだ。菜穂子の家を訪れる二郎は、玄関からではなく庭をまわって直接彼女の部屋に行く。菜穂子とは、玄関から入ったのでは会うことの出来ない(特別な経路によってしかアクセスできない)非現実的な人物なのだということを、二郎は知っている。そして、二郎が零戦の開発に成功したのは、風の魔女の力であるのだ。二郎は高みを見る。その先にはイタリア人設計家のカプロー二がいる。彼はカプロー二に向かって進んで行くことで夢を実現したかのように見える。しかし実は、魔女に魅入られ、魔女の魔力に囚われることよって零戦は実現した。それまで必ず失敗していた試験飛行は、風の魔女が山から下りて来たからこそ成功できたのだ。二郎の成功を確信した魔女(菜穂子)は、死ぬのではく、たんに消える。あるいは、もといた高いところへ帰ってゆく。
この映画が、メカオタク、軍事オタクによる、リアルな開発の話であれば、もっと分かり易くなるだろう。でもこの映画は、一方で、高みを目指すオタクたちの話であるのと同時に、他方で魔女に呪われた男(「ハウル」のソフィーのような)の話でもあり、それが二重化されている。カプロー二に追いつこうとする二郎は既に菜穂子の呪いに把捉されている。だから、成功とは呪いの発現でもある。ラストの夢の場面で、カプロー二と菜穂子が両方でてくるのはそのためだろう。カプロー二と菜穂子は裏と表であり、陽と陰であろう。
零戦の成功と共に魔女は消える。つまり、二郎の特別な才能(=呪い)も消える。創造的な十年は終わる。「風立ちぬ、いざ生きめやも」とは、この物語が終わった後の話で、つまり、特別な才能がもう無いというなかでこそ(それは呪いが解かれたということでもある)、生きることを試みなければならない、ということではないか。
●こう考えると、ぼくが前のところで書いた、「中途半端に跳ねている」場面は、すべて高原のホテルでの場面であったということに気付く。つまり高原のホテルは、夢の世界とも現実の世界とも違う(それはどちらも「人間」の世界だ)、人間の世界と魔女(非人間)の世界とが交わるところで、だからこそ、「中途半端に跳ねている」必要があったのだろう。この場面がこの作品を難解にしていると思うのだけど、でもやはり、これはなくてはならないのだろうと思う。
●あと、すごいと思ったのは、この映画では、震災、戦争への道、人々の困窮などは、時代背景としては描かれているが、あくまで背景であって、背景でしかない。二郎にとってリアルなのは飛行機であり、それ以外は「背景」でしかない。二郎は金持ちでエリートだから、彼の生活は時代の変化にはあまり左右されない。背景は背景としてきちんと描くけど、それは背景でしかない、という態度が徹底している。
庵野秀明の声と演技は思っていた以上に良かった(詩を朗読するところが---主人公ではなく庵野秀明の顔が浮かんでしまって---ちょっと厳しかったけど)。この人は、こんなに甘い、子供っぽい声だったのか、と思った。もし、主人公の声が庵野秀明ではなくて、手慣れた声優とかだったら、この映画はちょっと観ていられない感じになったかもしれないと思う。
●『かぐや姫の物語』の予告がすごかった。