2021-10-07

●『ロル・V・シュタインの歓喜』(マルグリット・デュラス)の語り手がジャックだと書くことは、それだけで重大なネタバレになる。

《以下に、事細かに述べるのは、タチアナ・カルルが話したそのうわべの見せかけとやらと、T・ビーチのカジノの夜に関して私がでっち上げた話を、まぜこぜにしたものである。それをもとに、ロル・V・シュタインについての私の物語を語ることにする。》

上記のようにあからさまに語り手の存在を意識させながらも、小説の途中までは、それを誰が語っているのか分からないまま小説は進行する。どうやらロルを愛しているらしいその語り手の《私》は、小説が三分の一程度進行したところで、タチアナの愛人であり、(タチアナの夫である)ピエール・ブニュールの医局にいる医師、ジャック・ホールドであると名乗る。

結婚して故郷のS・タラを離れたロルが、十年後、夫の昇進によって再び故郷へ帰ってくる。そして故郷を散歩している時に、女学校時代の友人であり、「T・ビーチの事件」の時に傍らにいたタチアナが、男と密会しているのに出くわす。ロルは二人を尾行し、ホテルに入るのを見届けるだけではなく、ホテルの裏にあるライ麦畑から、二人が密会するホテルの窓を覗き見する。その後でロルは、タチアナの現在の住まいを調べ、タチアナ宅を訪ねようと画策するのだが、この、ロルがタチアナ宅を訪ねるというタイミングで、《私》が語り手であるとジャックが名乗りをあげる。

つまり、ロルが覗いていたホテルの窓、外からロルがタチアナを見ていた時に、その部屋の内側にいた男こそが語り手であった、と。読者は、ロルが外から窓越しに部屋のなかを見ていた場面を読んでいる時はまだ、語り手が部屋でタチアナの相手をしている男性だということを知らない。だが、それを知った後に改めてその場面を読み返すと、なんとも複雑な視点の「入り交じり(混交)」があることに気づき、この小説の記述の複雑さ(視点や欲望の複数的絡み合い)を感じる。

まず、覗き見しているといっても、ロルはライ麦畑に横たわって窓を眺めているのであり、《これだけ離れていると、ふたりがなにか喋っても彼女には聞こえない》《 (…)彼女には、彼らが窓のむこうの部屋の奥を通るときしか見えない》という距離があり、詳細に見えているわけではない。だが、つづいて次のように書かれる。

《男がまたしても灯りの中を通るが、今度は服を着ている。そして彼にほとんど続いて、タチアナ・カルルがまだ裸のまま通る。彼女は立ちどまり、顔をかすかに仰向けて反りかえり、上体をぐるっと回転させ、腕をあげて両手で受けとめる構えになりながら、髪を体の前にもってきて、それを縒りりあわせて上にもちあげる。乳房は細い身体に比してぼってりしているが、すでにかなりしなびていて、タチアナの全身でそんなに傷んでいるのはそこだけだ。 ロルはその昔この乳房の付け根がどんなに清らかだったか思い出したはずだ。タチアナ・カルルはロル・V・シュタインとおない年だ。》

普通に読んでいると、タチアナの乳房が《すでにかなりしなびて》いるのを見ているのはロルであるように読んでしまう。読者は語り手が誰なのかまだ知らないし、段落の最初の部分、《男がまたしても灯りの中を通るが、今度は服を着ている》というのは、あきらかにロルの視点(を、語り手が想定して語っている)であるように思われるからなおさらだ。とはいえ、窓の外から乳房が「しなびている」というところまで見えるだろうか、と疑問には思う。

だが、次の段落を(語り手が誰かを知った後で)読むと、これは完全に内側からの視点であり、つまり、ロルの視点を想定して語られているはずの場面に、語り手の視点がずうずうしく混じり込んでいるのがはっきりと認識できる。というか、語りがここで、自分の正体を明かさないままで自己主張しているのが分かる。

《私は思い出す。 彼女が髪の世話にかかりきっているあいだに男がそばに来て、かがみこみ、やわらかで量のある髪の中に顔をうずめ、 接吻し、彼女のほうは髪をもちあげつづけ、彼のすることには構わずにつづけ、それから放すのだ。》

ここで、タチアナが「髪の世話にかかりきっているあいだ」に、男が「髪の中に顔をうずめ、 接吻し」ているのを至近距離で見る(思い出す)ことが可能なのは、その行為をしている本人以外ではありえず、それを《私》が思い出すのだとしたら、もうこの時点で、語り手(《私》)がタチアナの愛人であることが事実上明かされてしまっているのだ(ということを、再読してはじめて気づくのだが)。

だとすれば、一つ前の段落では《乳房は細い身体に比してぼってりしているが、すでにかなりしなびていて、タチアナの全身でそんなに傷んでいるのはそこだけだ》という描写と感想を行っている主体がロルであるかのように書いているが、そうではなく、語り手が自分のもった感想をあたかもロルのものであるかのように語らせているのだ、ということが分かる。なにしろロルは、外から窓によって区切られ限定された一部分を見ているだけのなだから(タチアナの全身を見られるはずはないのだから)、タチアナの全身で「そこだけ」が傷んでいるなどという判断はできないはずだ。

この小説はなんと複雑なのかと思い、そして、そのような複雑な書き方でしか書けないことを書こうとしている、ということも強く感じる。