2021-04-02

●ぱらっとみた感じでは連作集であるらしい『ふたりでちょうど200%』(町屋良平)から、最初に収録されている「カタストロフ」を読んだ。

この作家の小説は、『坂下あたると、しじょうの宇宙』も『1R1分34秒』も、実践(描かれること)についての実践(書くこと)という側面が強く出ていて、それはこの「カタストロフ」も同じだった(この作品で「描かれること」の次元にある実践はバドミントン・ダブルスだ)。そしてまた、この作家の小説を読むのはとても難しい。『坂下あたる…』はおそらく、意図的に読みやすく書いているのだろうが、『1R1分34秒』もこの「カタストロフ」も、読む呼吸のようなものがなかなか掴みづらい。「カタストロフ」では、まず30ページくらいまで読み進んだところで、もう一度頭から読み直すことで、なんとか感じを掴んだ。そして、とてもゆっくりと読む必要がある。

二人の新入社員(男性)が書かれているのだけど、その各々の人物と「語り」との間にある距離感がとても掴みづらい。まず、冒頭に置かれた場面がふたりの人物(鳥井と管)のどちらについての場面なのか決定できないということがあるのだが、それはまあ理解可能な仕掛けであろう。ここで感じる「掴みづらさ」の大きな原因のひとつとして、どちらの人物が、語り手の側の近くにいて、どちらが語られる対象の側に遠のくのかが決定されていなくて、「鳥井」の方が語り手に近くて「管」はどちらかというと語られる側にある場合と、その関係が逆になる場合とが、その都度シーソーのように入れ替わり、また、その入れ替わりがひとつの段落のなかでも頻繁に行われたりするので、今、語られている事柄が「鳥井」についてのことなのか「管」についてのことなのか、少し気を抜くと分からなくなる、ということがある。

(途中まで読んで冒頭に戻ったのは、二人のキャラがどっちがどうなのか分からなくなったからということが大きい。)

ワンカットのうちで主客が入れ替わるようなこの感じを、他の小説ではあまり読んだ記憶がない。二人の主役が、どちらも語り手から等距離にあるというのでもなく、二人の人物が自他の区別無く未分化に溶け合っているというのでもない。常にどちらか一方が語り手の役割をとり、どちらか一方が対象となり、それがいつの間にか入れ替わってしまう。この感じが面白いのだが、おそらくこの感覚は、バドミントンのダブルスで、味方同士がコートのなかで役割を交代させる感覚と重ねられている。この小説の面白さは、ふたりの人物の関係を描くことと、その関係が主にバトミントンのダブルスの実践を通じて構築されることと、文章そのものの頻繁な主客交替という書かれ方との、すべてが密接に絡み合っているというところにあると思う。そしてこの感覚は、お互いに敵味方として対峙してラリーをしている感覚とはっきり違うという点がとても面白いのだ。ふたりは、一種の「見る(語る)/見られる(語られる)」関係にある「わたし」と「あなた」なのだが、それが対立的にあるのではなく、するするっと切れ目も抵抗もなく役割が入れ替わることで、未分化なひとつの塊の異なるふたつの側面が、局面局面でその都度別の顔を現わす、という感じになっている。

とはいえ、二人の関係が最後までずっと同等ということではない。ほとんど同等(同質ではない)だったふたりの関係が、ゆるやかに変化していって、同等性が壊れるというのが、この小説の流れであろう。「鳥井」と「管」は、小学生の頃のある記憶を共有し、同期で同じ会社に入社し、共に営業に配属され、週末は同じサークルでバドミントンのダブルスのペアを組んでいる。小説のなかでふたりは、どちらかが表ならもう一方は裏となり、表が裏返れば裏が表になるという風に共-存在している。だが「鳥井」はそれだけでなく、隔週でコンテンポラリーダンスのワークショップに通っている。ダンスする「鳥井」は表でも裏でもなく、独立存在している。

二人の関係の外にダンスレッスンという別の実践(からの視点)を潜在的にもっているため、「鳥井」の方が、わずかに語り手側への偏りが強いと言える。しかしこの偏りは当初はほとんど意識されなくて、進行するにつれて少しずつ「鳥井」の側に語りの主体の重心が傾いていくという感じになっている。エンタングルメント的なふたりの関係の絡み合いが決定的に崩壊するのは、合宿の試合で「管」が怪我をするという出来事によってだが、その予兆として、前の晩の呑みの席で一瞬だけ「管」がトイレにたつ場面が挙げられる。この小説ではここまでふたりは共にあって相手を対象としていたが、ここで「管」がいない場面が生まれてしまう。相互に相互の「語り手」であり「対象」であるこの小説で、この場面では「鳥井」が「純粋な話者」にきわめて近い位置に立つと言える。「鳥井」の視点が、「管」のいない場面を語るからだ。

これによって、ふたりは以前のような関係には戻れなくなる。そして「鳥井」の方に「語り」の重点がぐっと傾く。終盤に「鳥井」が、視点を共有するために「管」をダンスのワークショップに誘ったとしても、その視点はもうエンタングルメント状態にならない。