●つづき、三回目。「黒つぐみ」(ムージル)について。
25日に引用した、小説がはじまってすぐの部分を、もう一度、もう少し長くみてみたい。
《ふたりの男というのは幼なじみだった。名前は、A1、A2としておこう。わざわざこんなことをいうわけは、実のところ、幼なじみの友情とは、年をとればとるほどに奇妙になるものだからである。長い年月がたつうちに、ひとは、脳天から爪先まで、皮膚の細毛から心臓にいたるまで変わってしまう、しかしおたがいの関係は、ふしぎなことにいつまでも変わらない、順番に「ぼくよ」といって呼びかけるさまざまな紳士がたに対してだれもが持つ関係同様、すこしも変わらない。もちろん、古い写真にうつっている、頭でっかちの金髪の小さな男の子と、今の自分が同じような感情をいだくかどうか、それは問題とするにあたらない。いやそれどころか、このちっぽけな愚劣な、しかもまさに自分自身にほかならぬ怪物に、今の自分が好意をもっているかどうか、それさえ実は怪しいものである。そういうわけで、ひとは最上の友人とも意見を同じくしているわけでもなければ、満足しているわけでもない、いや、相手の顔を見るさえ不愉快だという友達づきあいも、ずいぶんあるはずなのだ。ある意味ではそれこそが何にもましてこまやかな最上の友人なのだろう、そこにはいかなる夾雑物もまじえない不可思議な要素が含まれている。》
この部分を読むと、これらの文が、幼なじみという関係について語っているのか、過去の自分自身との関係について語っているのか分からなくなる。というか、あきらかに意図的に、このふたつの異なる「関係」を混同するように文が重ねられている。甲と乙とが幼なじみであれば、甲自身、乙自身それぞれがまったくかわってしまっても、甲-乙という関係自体はかわらない。それは、私が過去の私に対してもつ関係と同様である。私自身が、少年時代の私に好意をもっているとは限らないのと同様、幼なじみに好意をもつとは限らない。相手の顔を見ることさえ不快であるかもしれない。しかしだからこそ、関係の不動性は重要であるのだ、と。だからここで、中味がかわっても関係がかわらないというのは、幼なじみとの関係であると同時に、私と過去の私との関係のことでもある。私が過去の私をいかに嫌いになり、また、過去の私が今の私をいかに嫌いになろうが、それが私であることは変わらない。むしろ《相手(私)の顔を見るさえ不愉快》であるからこそ、それは《何にもましてこまやかな最上の友情なのだろう》、と。
だがここで、「幼なじみ」とはつまり、私と過去の私との関係のことなのだ、という風に、性急に一元化してしまうことは避けなければならない。私と過去の私との関係は、要するに幼なじみのようなものなのだ、ということと、幼なじみとの関係というものは、要するに私と私の過去との関係のようなものなのだ、ということとは違う。(1)甲を乙との類似によって説明すること、(2)乙を甲との類似によって説明することは、同じではない。引用部分の文の連なりはこの二つの並置し、混同するが、一方を一方の説明とはしていない。(1)と(2)の並置は、甲と乙とを近づけるが、異なる逆のベクトルを持っている。このベクトルの違いが、この小説を微かに震えさせているように思われる。
●A1とA2と語り手(わたし)との関係のあいまいさ(というより、揺れ、ブレと言うべきか)は、おそらくこの冒頭近くの文章が効いていることによる。ただ、第三者である語り手の「わたし」は、小説の最初の部分、A1とA2との過去の来歴を語る部分では強くその存在を匂わすが、それにつづく「三つのささやかな物語」が語られる部分ではほとんど存在の気配をあらわさなくなる。これ以降はほぼA2のモノローグのようになり、ときおりA1が話の受け手としてその姿をあらわにするとき、A2の存在を外から描写する視線としてのみ、語り手はわずかに存在を感じさせる。例えば、ひとつめの物語が語られる途中、A2が集合住宅の平面的な均一さに抗するように、《一度棚の上によじ登》り、すると《そのときぼくがまきこまれていたやっかいな会話》が、そこでは《まったく一変してみえた》と語った(A1はもともと、教会の突頂で逆立ちするような男である、「高さ」の主題)後の場面。
《A2は自分の思い出に笑って、グラスに酒をついだ。今われわれがいるのは、赤いランプシェードのあるおれの家のバルコニーではないか、とA1は思ったが、何もいわなかった、何をいっても仕方のないことを、知りすぎるほど知っていたのだ。》
この部分は、二人の会話(というよりA2のモノローグ)が、どのような状況で行われたのかを示す、この小説でほぼ唯一の場面だ。《A1は思ったが、何もいわなかった》という部分に語り手(わたし)の気配が微かにある。A1は何も言わない人物であり、小説の最後に二つの言葉(質問)を発するだけなのだ。しかしここでは確かに、A1と語り手の存在が示されてはいる。つまり「幼なじみ」が「過去の私」には解消され切らないことが認められる。
A1と語り手の存在が浮上する場面は、みっつめの物語が語られる直前にもふたたびあらわれる。
《実はもう一度体験することはしたのだ、だが、もっとはっきり、というわけにはいかなかった---とA2は最後の物語をはじめた。彼は一段と自信がなくなったようにみえた。しかし、だからこそこの物語をして、それを自分の耳でたしかめようと思っているのだということが、彼の態度からありありと見てとれた。》
ここでA2の語りが、A1に対して、A1に聞かせるためになされたというより、自分自身に対して、その耳に対してなされた(つまり、自分に対する自分の関係が問題になっている)というニュアンスが強く出てくる。しかし、それは、A2がそう言っているのではなく、彼の話を聞く者が、そうであるように感じている、という意味で、モノローグへと解消されてはいない。そして、ここで疑問なのは、A2が《一段と自信がなくなった》と感じ、彼が自分のためにこの話を語っているのだと感じているのが、A1なのか、第三者の語り手なのか、分からなくなっている。《彼の態度からありありと見てとれた》といっているのだから、それはA2と同席していたA1であるのだろうが、だとするとここでA!と語り手は一体化してしまっている。
ひとつめの物語では、まだかすかに語り手の気配があり、ふたつめの物語はほぼ完全にA2のモノローグである。そしてみっつめの物語の冒頭で、A1と語り手とが一体化した記述があらわれるということは、このみっつめの物語(の語り)が、第三者を介した話でもモノローグでもなく、対面性(二者性)を強く帯びた語りであることを示すのではないだろうか。
●みっつめの物語は、母との関係の話であり、同時に、母を媒介とした、自身の過去との関係の話であろう。次に引用する部分は、今日の最初に引用した部分とあきらかに響き合う。しかしここで、私と過去の私との関係を規定して(つなぎとめて)いるのは、母という媒介であるという点が異なっている。次の引用で、彼女とはA2の母のことであり、少年とはA2のこと。
《おそらく何十年も前に、ひとりの小さな少年の像が、彼女の心にはげしく焦きついてしまったのだね、その少年に彼女は、神よりほかに知るよしもないさまざまな希望を託したらしい、そしてその希望は、もうどうあっても消えうせようとはしなかったのだ。ぼくがこのとうに姿を消した少年だったものだから、まるでそれ以来沈んでいったすべての太陽が、まだどこか光と闇のあいだにただよっているとでもいうように、彼女の愛情はぼくにそそがれた。君はぼくがまたわけのわからない自惚れにひたっていると思うだろうが、これは自惚れではない。なぜなら、はっきりいえることだが、ぼくは自分のもとに滞留することを好まない、昔の自分を写した写真をながめて悦に入ったり、いつどこで何をしたかなどと思い出にふけってよろこんだりする人もずいぶん多いが、そういった自己貯蓄システムは、ぼくにはとんと合点がいかないのだから。ぼくは特別気まぐれなわけでもないし、刹那主義でもない。しかし何かが過ぎ去ったときは、ぼくもぼく自身のかたわらを過ぎ去ったのだ》。
《ひとりの人間が、ぼくが生きているかぎりそのぼくのある影像を、ひしと胸にいだきつづけていると知ったのは、実に驚くべき経験だった。その影像は、ぼくにはおよそ似もつかぬ、それでいてある意味では、かくあれかしとぼくに要求する、ぼくという写しの原本であるらしかった。》
A2にとって過去の自分とは、《何かが過ぎ去ったときは、ぼくもぼく自身のかたわらを過ぎ去ったのだ》とされるような何者かである。しかし母は、過去のA2を《ぼくという写しの原本である》かのように保存している。それはA2に言わせれば、《沈んでいったすべての太陽が、まだどこか光と闇のあいだにただよっているとでもいうよう》な不可解なことだ。A2は、自身のかたわらを既に通り過ぎて久しい過去の自分の《影像》に、母に会うことによって「出会わされてしまう」のだ。このことが、A2は母とを疎遠にするのだ。
実際、A2の生涯は、様々なものの傍らを通り過ぎつづけることによって構成されている。それはまさに、二十世紀の歴史の必然でもある。
《ぼくは飛箭の一件のすぐあと、ロシアでの戦いで捕虜になり、やがてそこで大革命を体験し、新しい生活が長いあいだ気に入っていたので、急いで帰国しようとは思わなかった。(…)だがある日、ぼくは自分がいくつかの絶対視されている教条を、欠伸せずにはもう口にできなくなっていることを発見した。(…)ぼくはちょうど個人主義流行の全盛期にあったドイツへのがれた。ここでぼくはありとあらゆるいかがわしい商売を営んだ》。
戦争、捕虜、共産主義革命への希望と失望、個人主義的で享楽的な生活…、それらはすべてA2の傍らを通り過ぎたものであり、いずれ通り過ぎるであろうものたちであり、A2はそのひとつひとつに特別の価値を感じていない。ただ、そのなかで何度か訪れた特別な経験(黒つぐみの声や飛箭の歌)にのみ、A2は、何かわからないが何かしらのひっかかりと、微かな共通性を感じている。A2が語ろうとするのは、困難な捕虜生活や、共産主義への希望と失望、ドイツでのいかがわしくもきらびやかな生活といった、いかにも「物語」になりそうな事柄ではない。それらは既に傍らを通り過ぎて色あせたものでしかない。
A2にとっては、自分の少年時代もまた、それらと何らかわることのない「傍らを過ぎ去ったもの」に過ぎなかった。しかし、母にとってはそうではなかった。それはA2にとって《実に驚くべき経験だった》のだ。この驚きは、単純に肯定的なものでも否定的なものでもない。A2は、そのことによって母と疎遠になるのだが、そのことによって、改めて母と(そして自身の過去と)出会い直すことになるのだから。
つづく。