●『寓話』(小島信夫)を最後まで読んだ。最初の三分の二は面白さに引っ張られて一気に読んだが、最後の三分の一は、意識的に、ゆっくりと、何度も前に戻りながら、切れ切れに、間をあけて読んだ。
この歳になって改めて小説のすごさ、面白さを知ったという感じだ。前に読んだ時の自分は一体この小説の何を読んでいたのか、と、過去の自分が今の自分と同じ自分とは思えない、という感じをもった。小島信夫は、自分が過去に書いた小説のすべて、過去に読んだ文章のすべて、過去に出会った出来事のすべてを、完璧に憶えていて、しかしそれを、平然と忘れた振りをすることができる、あるいは、忘れていると思い込むことができる、という人だったのではないか。そうでもなければ、こんな小説は書けないのではないか。
前にも書いたけど、この小説はとても複雑な構造をもつ、きわめて奇妙なもので、多くの人が小説に期待するものとは大きく異なる形をもつかもしれないけど、しかし、普通に面白く読めるものでもある。この小説は、先の見通しが立たないまま行き当たりばったりに書かれたようであり、同時に、超絶ミステリのようでもある。そしてこのような構造の複雑さは、下に引用するような状態を「小説」としてつくりだすために必要なものだったのだと思う。引用は、この小説でもっとも重要な人物といえる茂子の手紙から。この手紙の置かれる52章はすばらしくて、この小説はここで終わってもよかったのではないかとも思う。
(下で言われている「寮」とは、引き取り手のない中国残留孤児のための寮のこと。)
《私は図書館から帰ってから、とてもむつかしいのですが、この『寓話』の物語を寮の人たちに分かるように話してやったりします。そんなこと出来るわけがないという方もいるかもしれませんが、そんなことはありません。私流の物語にして話すのです。》
《私はこの『寓話』の話は、寮の人たちに話しているといいましたが、私は大人の童話として語るのです。私は前に作家のS氏が大人の童話を書いていると自称し、また他人に多少軽蔑気味にいわれても胸を張っているのが大好きなのです。私はあの八十いくつになるお爺ちゃまの写真を壁にはっています。彼の眼つき微笑みは昔と変わりません。私はS氏に話しかけると心が和みます。(略)
今夜もS氏は壁の上から私に語りかけてくれるのです。
「あなたは、昭和三十二年の兄さんにあてたあの手紙のなかでさまざまなことを語りました。そのなかに私のことが出てきましたね。おかげで私のことは日本の方々にも大分伝わりました。私がどういう人間か、どういう考えをもって生きたり書いたりしているか、すこぶる具体的に親身になって話して下さいました。あれはたいへんなことです。私の小説そのものよりも値打ちがあると思いますよ。
なぜかというとですね、人というのは、小説そのものでは伝わらないことがあります、口伝えに、あるいは、あなたみたいに意外な人の口から、それも女性の方から、それもせっぱつまった状況のなかで、まったく思いがけずに私のことや、私の小説のこと、それも私の書いたものではなしに、まだ今よりは若かった私が、あなたの前で、いやあなたの御主人とあなたの前でこれからやがて書こうとしていた物語の話をしたのを、あなたは書いて下さった。あれはとても効果的です。何というつつしみ深さでしょうか。私がノーベル賞作家として有名になるずっと以前のことなのです。」
こんなことをいっているSさんの声がきこえてくるのです。私は彼のほんとうの声をきいて知っていたのですから、向こうからきこえてきても当然でしょう。》
そして、次の引用は、保坂和志個人出版版『寓話』の、小島信夫による「新装版のためのあとがき」から。この文章には2005年12月30日という日付がつけられている。
《ぼくは七月十二日の「トーク」のあと、『寓話』を取り出して二週間かけて読み、それから二週間かけて『菅野満子の手紙』を読み、登場人物たちがいかにも(手紙の中で)その人物らしく、作者のぼくを幸福にし、ぼくは一九八〇年から八五、六年のあいだの作品の中であるが、今では二十年から二十五年前のことであることも忘れ、もともとその人物が存在しなかったことも忘れ、ぼくは電話をかけようとし、いや作者のぼくが顔を出すべきではないと考えなおして、ほとんど大部分の人たちがこの世にはいないことに気づいた。》
●そういえばここで書かれている七月十二日のトーク小島信夫は、延々と「トリストラム・シャンディ」の話をしていて、それを受けて保坂さんが、岩波文庫か筑摩の世界文学大系で読めますとフォローすると、ここで「話を聞く」だけで読まないですませるという手もある、わざわざ読むほど面白いわけではない、と言っていたのだった。読むよりも人からその話を聞いた方がいい、と。この感じが『寓話』的だ(ぼくはこのトークの現場にいたわけではなく、録音で聞いた)。
●『寓話』のなかには、『寓話』を翻訳したいと言っている日本文学専攻のアメリカ人学生(A君)が出てくるのだけど、『寓話』は翻訳されているのだろうか。いや、こんなに面白い小説をなぜみんな読まないのかなあ、勿体ないなあと、とても不思議なのだ。序章があまりにも訳が分からなくて、こんなのがずっと続くのではたまったものではないと思ってそこでやめてしまうのだろうか。とにかく「浜仲から手紙がくる」まで粘って読めば、その先にすばらしい世界がひろがっているというのに。