●必要があって『寓話』(小島信夫)をずいぶんと久しぶりに読み直しているのだが、ひっくりかえるくらいに面白い。面白過ぎて手に余る。こんなに面白かったのか、いや、きっと前に読んだ時は、今ほどは面白がれていなかったのだろう。陳腐な言い方になるが、小説という器の大きさ、幅の広さと懐の深さを思い知る感じ。というか、これは小島信夫の器の大きさなのか。三分の二くらい読んだ。
●これは保坂さんが書いていることなのだが、小島信夫は八十年代はじめに、『別れる理由』というとてもじゃないけど最後まで読み通せないような長大かつ異様な小説が評判となり話題となって、しかしそのために、小島信夫=とてもじゃないけど読めない小説を書く人みたいなイメージがついてしまって、その後の作品が読まれなくなってしまったのだけど、小島信夫の絶頂期はその後に書かれた三作(『美濃』『寓話』『菅野満子の手紙』)にある、と。
例えば、『抱擁家族』や「アメリカン・スクール」は、公式的に日本文学の重要作品ということになっているから読む人はいるだろう(江藤淳『成熟と喪失』などによる評価)。あるいは「馬」は、村上春樹がプッシュしているから、それをきっかけに手にとる人もいるだろう(『若い読者のための短編小説案内』)。最晩年の作品も、保坂さんとの関係があるので、保坂さんの小説を読む人の多くは読んでいるのではないか。しかし、絶頂期の作品こそが、もっとも敬遠されてしまっている感じがある。
でも、少なくとも『寓話』は、かなり奇妙な小説ではあるけど、読みにくい小説では全然ない。最初の数章は、「これを一体どう読めというのだ」という戸惑いが生じるけど、そこを抜けるとひたすら面白くなる。変な比較だけど、古井由吉大江健三郎中上健次と比べても大分読みやすいし、その「面白さ」も分かりにくいものではないと思うのだけど。読む側にある「小説とはこういうものだ」という固定概念から自由になることが出来さえすれば、決して難解な小説ではないし、小説を読み慣れている人でないと分からないようなものでもない。
●序盤は、「わたし」と「あなた」というような二人称的で分身的な関係が相互陥入してゆく様がかなり濃密に展開されているのだが、そこに徐々に別の視点というか、第三、第四の焦点が介入してきて多焦点的になって世界が広がって行き、しかしそれは二人称的関係に対する第三者の視点というものではなく、ネットワークが複雑化してゆく感じで、複数の焦点がそれぞれに異なるやり方で相互陥入し、さらに相互陥入同士が相互陥入するという感じに複雑な入れ子状に展開してゆく。
『寓話』に出てくるほとんどの登場人物が小島信夫の小説の読者であり、また連載中の『寓話』という「この小説」そのものの読者であり、作者である小島信夫は、その読者からの様々な反応を受け取り、その反応を読む読者として、反応を反映させて「この小説(『寓話』)」を書いている。つまり、そのような形で読者が能動的に小説を誘導する登場人物となり、登場人物のモデルとなる。そしてこの小説は、作者こそが(読者たちの反応の)読者であるかのように書かれている。
そもそも最初にこの小説の中心にいるのは、アメリカ人の父をもつ混血でどう見ても日本人には見えない容姿をもっているにもかかわらず、太平洋戦争で日本兵となった浜仲という人物で、彼は「燕京大学部隊」と『墓碑銘』という二つの小島信夫の小説の登場人物である。彼は、戦争中に小島信夫の部下として行動を共にした者として、二つの(内容として矛盾する)小説のモデルとして、そして小説家となった小島信夫の書いたもののほとんどを読んでいる読者として、さらに小島信夫の身辺を詳しく調査して知っている人物として、1980年になって突然、終戦後に中国で別れて以来はじめて、小島信夫に連絡をしてくる。
小説は、浜仲から「暗号」として送られてくる手紙を中心に展開する。浜仲という人物に実在のモデルがいたかどうかは分からないけど、浜仲から暗号で長い長い手紙が送られて来るというのはフィクションであろう。おそらく小島信夫は、自分の小説の登場人物が自分の小説の読者であるとすれば、自分にどんなことを言いたいだろう、という仮定をして、そのような登場人物との対話から小説をはじめたのだと思われる。これが序盤の濃厚な二人称的展開なのだが、しかしその後、連載中の「この小説」を読んだ実在する人物(をモデルとする登場人物)からの反応が小説に書き込まれるようになる。だが、この「実在する人物(をモデルとする登場人物)」たちは皆、浜仲を当然のように実在する人物として扱い、つまり、浜仲という人物が小島信夫に暗号の手紙を送りつけていることを「事実」だとして、「この小説」に反応している。その意味で、彼らは実在する人物ではなく、実在する人物をモデルとした小説世界の人物であるのだが、しかし彼らは、この小説で多く引用される世界中の小説と同様に、引用された実在の人物でもある。
例えば、ある小説の登場人物が『カラマーゾフの兄弟』を読んでいるとすれば、その小説の虚構世界には『カラマーゾフ…』という小説は実在し、それは現実世界の『カラマーゾフ…』と同じものである。同様に、『寓話』のなかで森敦が電話で喋っていれば、その虚構世界のなかには、現実世界と同様に「森敦」が実在し、それは現実世界の森敦と同じ人である(ただ、浜仲の手紙の実在を信じているという点だけが違う)、というような。
現実と虚構というだけでなく、浜仲という登場人物は虚構内でも二つのパラレルワールドにまたがって存在している。「燕京大学部隊」の浜仲(と私=小島信夫)は、戦争中、北京にいて暗号解読の仕事をしている。『墓碑銘』の浜仲(と私)は、レイテ島へ送られている。小説の序盤は、この二人の浜仲の分裂の気配が語られる。しかし、第三、第四の人物が現れるにしたがって、浜仲自身の分裂の気配は後退し、それぞれの人物が、それぞれ別人でありながら、一部で重なっているという感じが強く出てくるようになる。
パイの生地をのばしては畳み、のばしては畳みを繰り返すことで、生地のなかに何層もの空気の層を畳み込み、生地と空気を不可分に噛み合わせてゆくように、『寓話』は、虚構のなかに現実を、現実のなかに虚構を、様々な技法を駆使しながら何層にも織り込んでゆく。その虚構のなかには、他人が語った物語もある。しかし、現実に他人が物語った物語は、現実であり虚構でもある。あるいは、虚構の人物である浜仲が現実の話を語るかもしれない。つまり、そもそも、現実のなかには虚構が織り込まれているし、虚構のなかにも現実が織り込まれている。そもそも織り込まれているものを、さらに織り込んでゆく。
つまりそもそも我々が生きている現実がそういうものなのだが、しかし、幾重にも畳み込まれた小説世界が現実以上に虚実を密に編み込ませているとしたら、それは現実以上に現実的であり、同時に、夢のようでも、童話のようでもあり得るものになるのではないか。
(『寓話』は、水声社小島信夫長編集成で来年一月に発売される予定だけど、今でもまだ、保坂さんが個人出版したやつも買えると思う。)