●『かわうそ堀怪談見習い』(柴崎友香)について、もうちょっと。この小説の舞台は大阪市であるが、そこに架空の地名が混じっている。「かわうそ堀」は実在せず、そのモデルは「立売(いたち)堀」で、「羽凪(うなぎ)公園」は実在せず、モデルは「靱(うつぼ)公園」だという。この流れで考えると、「猪子島」のモデルは「江之子島」ということになるのだろうか。そして、作家の名前が「柴崎友香」で、主人公の名前が「谷崎友希」だ。
小説で、この手の言い換えが使われるのは別に珍しくないだろうし、作家と主人公の名前の類似は、主人公が小説家であるという設定からくる一種のトリックだと考えられる。しかし、このような手法を柴崎友香という作家が使うのは珍しい。
折り返す視線によって、「この世」とほとんどぴったり重なりながらも、決定的に分離している「この世」’に迷い込んで戻れなくなる。そしておそらく、「この世」’は一つではなく、「この世」’、「この世」’’、「この世」’’’……、と無数に存在し、それらはみんな、ほとんどぴったり重なっているが、ほんの僅かずつずれている。だからおそらく恐怖には二種類あって、一つは、「この世」と「この世」’とを分離させる(というか、忘れているかつての「分離」を思い出させる)、見てはいけないなにものかからの視線の折り返しで、もう一つは、「この世」と「この世」’の間、あるいは、無数の「この世」’たちの間にあるずれや歪みが顕在化するもの。
「13 桜と宴」で、主人公に自分の体験を語るリエコは、主人公とはまた別の「この世」’における「主人公’」であり、だからここで主人公は他者の口から自身の体験を聞くことになるのだが、しかし、彼女たちの属する二つの「この世」’は別々なので、リエコには見える「おじいさん」が主人公には見えない。二つの「この世」’は、ほとんど重なりながらもまったく同一ということではなく、互いを映し合うように並立し、そして、通路がない。
この「この世」と「この世」’との関係は、現実世界としての「この世」と、小説内虚構としての「この世」’との関係とパラレルとも言える。とはいえ、この現実世界に住む読者の一人一人もまた、現実的「この世」から分離した、現実的「この世」’や現実的「この世」’’に住んでいるのだとしたら、現実と虚構の関係は、そう単純なものではなくなる。というか、そもそも、現実に存在すると自分では思っている「このわたし」が、「この世」から分離した「この世」’に住んでいるのではないかという感覚をリアルにもつからこそ、フィクションというものが可能になると思われる。
では、たまみはどうなのだろうか。同一の「折り返し」経験を共有する主人公とたまことは、同じ「この世」’に住んでいるのだろうか。しかし、二人は同じ出来事を共有するとしても、その位置が異なり、経験としては非対称的だ。故に、たまみは憶えていて、主人公は忘れている。だから、主人公とたまみとも、別々の「この世」’に住む。しかしここで、主人公とたまみの関係が示すのは、異なる「この世」’間に、まったく通路がないということはない、ということだ。通路は、開くこともあり得る、と。
一方に、異なる「この世」’で(ほぼ)同一人物である主人公とリエコの関係があり、もう一方で、同一の出来事を異なる位置から経験する他者として、主人公とたまみの関係がある。このような交差的関係が、通路を開く鍵なのかもしれない。
●面白いのは、あらゆる恐怖を「眠り」によって回避する、宮竹茶舗の四代目というキャラクターだ。眠りという鉄壁の防衛を身につけているこの人物は、ただちに「エブリパティ・ラブズ・サンシャイン」の主人公を想起させるのだが、こちらは四十代の熊のような男性だ。この人物は、「恐怖と向き合う」ということを眠りによって徹底的に避ける技芸により、安定した鷹揚さを獲得している。