文化的な権威と柴崎友香の小説

●原稿は60枚を超えた。この調子だと、規定の枚数の倍(80枚)でも納まるかどうか分らなくなってきた。
●ぼくは昨日の日記で、文化的な権威について書いたけど、もはやそんなものに期待しないで、そんなものは「ない」ものとしてやっていこうとする人も、今の若い人たちには多分いるのだろう。例えば、柴崎友香の小説に出て来るような若いアーティストは、文化的な権威などには、はじめから何も期待などしていないようにみえる。(しかしそれは、東浩紀の言うような「動物化」というのとも違う。)ぼくと同世代くらいだったり、もっと上の世代で美術をやっている人たちは、同じ「清貧」のような生活をしていても、どこか「大向こう」を常に伺っているようなところがどうしてもあるし、また、それによって制作を持続させ、「清貧」にも耐えられるというところがある。しかし、柴崎友香の小説の人物たちは、はじめからそんなものをあてにしてはいないし、見てもいない。そういう人物を小説で読むと、ぼくは、自分が恥ずかしいという感じをいつも覚える。だが、そのような人物に対して「眩しさ」を感じながらも、同時に「危うさ」も感じる。前にも書いたことがあるけど、そのような人物が、三十代、四十代になったら、一体どんな風になっているのか、なかなか想像ができないのだ。彼や彼女たちは、その年齢になっても「持ちこたえる」ことが出来ているのだろうか、が、とても気になる。(例えば、「主題歌」(「群像」2007年6月号)にでてくる「りえ」のような人物は、実際にいないわけではないのだけど、そういう人に十年ぶりくらいで会ったりすると、妙な宗教にはまっていたりする。いや、とてもたくましい母親になっていたりもするので、否定的なことばかりは言いたくないのだが。あるいは「森本」は、四十過ぎても作品をつくりつづけているだろうかを考えると、それはとても困難なことのように思われてしまうのだ。だが、そう思った次の瞬間に、いや「森本」ならきっと大丈夫だろう、とも思える。「主題歌」で、一応就職している主人公の実加と、これらの人物たちとの間にある微妙な距離感が今後どうなってゆくのかも、とても気になる。唐突だが、そのような意味でも『ネオリベラリズム精神分析』における現在のコミニュケーションの有り様の分析が、まったく他人事ではない、手に汗握るような緊迫感とともに迫ってくるのだ。)
●ここから先は、まったくどうでもいい話。よくネットでみられる柴崎友香の小説の感想で「保坂和志の影響」みたいなことが書かれているけど、これがぼくにはさっぱり理解できない。柴崎友香保坂和志の小説は、その文章にしても、人物やその関係の有り様にしても、描写の持つ意味にしても、まったく似たところがない。柴崎友香の小説を読んで驚くのは、良い意味でも悪い意味でも、こんなに唯我独尊な小説家がいるのか、ということで、この作家が、どんな小説を読んで小説を書こうと思ったのかがみえてこないのだ。いわゆる「読んだから書いた」というような作家とは、全くことなる場所で書いているようにみえる。この小説家はデビュー作から一貫して、うんざりするくらい柴崎友香以外ではありえないくらいにずうずうしく「柴崎友香」で、それは個々の作品の出来不出来とは無関係にそうなのだと、ぼくには感じられる。
●ここまで書いてきて思いついたのだが、前言をあっさり覆すようだけど、「りえ」の十五年後が「この人の閾」の「真紀さん」で、「森本」の二十年後が『季節の記憶』の「松井さん」だったりする可能性は、充分にあるかもしれない。勿論、柴崎友香は、決して「そういう風」には書かないだろうけど。