柴崎友香寝ても覚めても』(「文藝」2010年夏号)。この小説については書きたいことが山ほどある。通常ならば、今後四、五日くらいは、偽日記はこの小説の感想で埋められることになるはずだろう。でも、それは我慢することにする。なぜなら、この小説は、出来得る限り、何の予備知識ももたない状態で読まれるのが、よりよい小説と読者の出会い方だと思われるから。ぼくがここにいろいろ書いてしまうことで、ぼく以外の読者が、この小説とよりよい形で出会うことの邪魔になってはいけないと思うから。大方の柴崎友香ファンの人が、この小説を読んだであろうと思ってもよい時期になるまで、具体的な感想や分析は書かないことにします。
余計なお世話だと思うけど、これからこの小説を読もうと思っている人は、出来る限り、紹介やあらすじや感想などの事前の情報はシャットアウトしておいた方がいいと思います。柴崎友香という作家のディープな読者であればあるほど、そうした方がいい。勿論、あらすじや形式を事前に知ったから、もう面白く読めないというような小説ではまったくないと思いますが、しかし、このような小説が出現したことの驚きを、よりよく感じ取るためには、何も知らないままで読んだ方がいい(こういう風なことを書いてしまうことが既に言い過ぎなのだが)。
以下、できるだけ具体的な内容に触れないように、ちょとだけこの小説の感想を書きますが、まだ読んでない人は読まないように気をつけて下さい。
●この小説には、内容的にも形式的にも、この作家が過去の十年以上に渡って書いてきたあらゆる事柄が詰め込まれている。それはつまり、この部分はあの小説で読んだ、というところがいっぱいあるということなのだが。しかしそれは、たんなる使い回しということではない。まず第一に、それらすべてを動員することによってはじめてこの主題を、この小説を書くことが可能になったということだろうし(それだけこの主題がこの作家にとって本質的な問題だということ)、もう一つは、今まで書いてきたあらゆる事柄を、この小説を書くことで新たに編成し直そうと、組織し直そうと、モンタージュし直そうとしている、ということだと感じられる。つまり作家は、この小説を書くことで、作家としての自分自身をあらたにつくり直そうとしているように思われる。それは、意図的にそうしたのか、それとも、この小説の主題が、図らずも、作家にそれを強いたということなのか、それは分からないけど。それは同時に、以前なら決して書かなかったようなことまでもを、この小説内に召還することになる。この小説は、この作家をずっと読み続けてきた読者にとって、驚きを感じさせるような場面や展開が様々に仕掛けられているが、その驚きやとまどいは、最後まで読み終わった後には納得にかわるだろう。この試み自体が、成功だとか失敗だとかの判定を軽々しく口にすることは慎みたいが、ともかくそれをやりきったということは確かだと思われる。
柴崎友香という作家が、見ること(見えるもの)に与える(見ることに賭けられた、課せられた)位置や意味や機能には非常に特異なものがあって、それは他の作家とはまったく異なるユニークなもので、しかも小説というジャンルがおそらく今までほとんど触れてこなかった領域に触れていると思われる(でもそれは、あたらしいテクノロジーみたいなものとは、実はそんなに関係ないと思う)。福永信がどこかのインタビューで、柴崎さんの小説は四百年後くらいになってようやく十全に理解されるのではないかと言っていたのを読んだ記憶があるのだが(記憶なので、正確ではないかも)、それもまた、この作家にとって「見ること」が、今まで文学に登録されたきた「見ること」とまったく異なる機能をもっているということを言っているのではないかと思う。だから、この感触を察知出来ない人には、この作家の小説のどこが面白いのかさっぱり理解出来ないかもしれない。『寝ても覚めても』では、この作家の「見ること」の特異性が、ほとんど野放図といってよい感じで発揮されているように思われた。