●「文學界」6月号の「星のしるし」(柴崎友香)を読んだ。ほんとは、今、小説をじっくり読んでいる余裕はないのだが、はじめの方をチラッとみてみたら、思わず引き込まれて最後まで読んでしまった。「主題歌」の主人公の実加が確か28歳くらいで、「星のしるし」の果絵は30歳手前ということになっていて、そんなに年齢はかわらないはずだけど、しかし主人公をとりまく状況が大きく動いていることに、ちょっと動揺した。それにともなって、この作家の大きな特徴である多方向へとのびてゆく開放的な空間のひろがりも、やや影を潜めている感じで、小説全体のトーンが、内側に向いて濃くて重たいものになっている感じだった。
例えば、果絵の恋人である朝陽の家にいろんな人が常にあつまってくるのは、「主題歌」の女子限定カフェや「ブルー、イエロー、オレンジ、オレンジ、レッド」の夫婦の家とかわらないのだが、しかし、「ブルー、イエロー...」の家の、家というよりも溜まり場といった方がいいような、誰かがポツポツやってきては、それぞれ好きな時に帰ってゆくかのような開放的な雰囲気は「星のしるし」の朝陽の家にはなく、そこは基本的に朝陽と果絵のいる場所であり、そこに正体不明な闖入者としてカツオが居座り、さらに、ちょくちょく友人の皆子がやってくるという、ある程度安定した構造ができあがっている。朝陽の昔のバンド仲間や、店のバイトがやってくることはあっても、それは小説内の一挿話としてそのような場面があるということで、関係が(場所が)無限定に開かれている感じではない。
ビリヤードの玉がぶつかるように、それぞれ独立してバラバラに存在する個人が、偶発性や気まぐれによって関係をつくって広がるような展開(話でだけ聞いていた友達の友達に会う、とか)ではなく、ある程度安定した恒常的関係(親子、親戚、夫婦、恋人という関係)が複雑に折り重ねられるという展開になっている。登場人物はかなり多いのだが、その関係が外に向ってひろがるのではなく、内側に向って重ねられてゆくことによって、濃くて重たいという印象が感じられるのだろう。いままでのこの作家の登場人物たちとはちがって、ここで人物たちは、もはやふわふわとした根無し草のような生活を許されなくなっているような年齢に達しており、社会的な関係の網の目の重さが、ぞれぞれにのしかかっている。読んでいてまず、そのことに動揺させられる。
下手をすると小説としての動きが制限されてしまいそうな関係の恒常性のなかに、イレギュラーな動きを導入するのがカツオという正体不明の人物だろう。だからこのカツオは、いままでの柴崎友香の小説に登場してきた、それ自身で魅力的な男の子たちとは異なり、あくまで作品の構造によって要請された、技巧的な人物といえるだろう。(例えば「主題歌」の森本のような人物は、この小説の人物たちの関係のなかにはもはや入ることが出来ないように感じられる。)以下、ネタバレだが、最後にカツオが消えてしまうということは、カツオでさえも、この小説の関係のなかでは居場所を得ることが出来ないということだと思う。(この小説の世界では、カツオのようにふらふらしていることは許されなくなっている。)それは、この作家の小説をずっと読んできた者としては、かなり衝撃的なことだ。
●もう一方で、この小説はあくまで女性たちの話として限定されてもいる。果絵の恋人の朝陽(名字なのか名前なのかあだ名なのか)も、皆子の夫の岡ちゃんも、きわめて存在が薄く、ほとんど寝ているだけという印象がある。果絵の父親もほとんど出てこない。最も目立つ男性はカツオであるけど、前述したようにカツオは作品の構造上の人物であり、小説に不確定な動きをあたえる狂言回しというか、ほとんど宇宙人(UFO)のようなものといってよい。唯一、印象的な男性の登場人物は、亡くなってしまった果絵の祖父かもしれない。
●この小説は、占いや風水やヒーリングがテーマでもある。現代の若い女性を主人公にしたような小説をあまり読まないのでぼくが知らないだけかもしれないのだが、占いをこのようなスタンスで描いた小説をぼくは他に知らない。(小説に限らず、映画やドラマも含めたフィクション全般で。)スピリチュアルなものが、批判的にでもなく、神秘主義的にでもなく、民俗学的(科学的)にでもなく、独自のやり方で捉えられていて、ああ、そういうことなのか、とすごく納得出来る感じなのだ。そして、占いを主題化することによって、この作家がいままであえて触れていなかった領域、会社の上司への憎悪(職場環境の負の部分、社会的な環境)、母親の情緒の不安定で大きな振れ(母親-肉親との関係の微妙さ)、親戚関係の複雑さ、友人の重たい病気(病気への不安)、友人とその夫の実家との関係のむつかしさ、等を、紋切り型に堕することなく、過度に深刻にもならずに(とはいえそれはかなり重いものだが)、リアルに掬い上げているように思われる。(これらの多くは、年齢とそれに伴う社会的な関係の恒常化、固着化によって生じる。)
母親が頻繁に模様替えをすること、玄関マットがいきなり花柄にかわっていたことの理由を、あとになって風水の雑誌で知り、そこから母親の感情について思いを馳せる場面とか、すごくよかった。
●この小説は、見ず知らずの他者からの、正体不明の視線ではじまり、終わる。主人公がいる場所からは、道路を挟み、さらに空き地を挟んだ向こうにあるアパートのベランダにいる人が、こちらを指さしているように思え、向こうから「わたしのことは見えるんだろうか」といぶかしく思う場面ではじまり、電車で向いにすわった「たぶんわたしと年の変わらない女の人」が、「こっちを見ている」にもかかわらず、「わたしが彼女を見ても、なぜか視線が合わないように感じ」るという場面で終わる。その前に、朝の公園で、小学生と目が合い、二人の小学生が「わたしの方を指差してなにか言い」「二人でわたしを見下ろ」す、という場面もある。
この視線は、「主題歌」の主人公が、自分の知らないところから恋人や同僚に見られている、愛情のこもった視線とは異なり、見ず知らずの他人からの、出会い頭で意図不明の視線である。この視線の不気味な感触は、主人公の見る宇宙人の夢の感触と響き合うようにも思われる。ただ、この不気味さを、文学的に解釈して、次第に社会的、固定的な関係に取り込まれてゆくことへの不安の表現として読むのは、ちょっと安易過ぎるように思われる。むしろこの不気味さは、作品の構造のなかで明確な位置をもたないからこそ、不気味なのだと思われる。むしろこのよくわからない不気味さの感触こそが最初にあり、それがこの作品をたちあげる動因になっているのではないかとさえ、感じられる。
●ぼくがこの小説を一読して、一番印象に残った場面を引用する。亡くなった祖父のことを思い出している場面。
《祖父は施設に入る前から緩やかに記憶が薄れていって、最後に会ったそのときはわたしのことはまったくわからなくなっていた。祖父はベッドに上半身を起こして座り、窓の外を見ていた。祖父はわたしが、つまり知らない人が、そばにいることに戸惑っているようで、しゃべらなかったしわたしの顔も見なかった。随分時間が経ってから、窓の外を見たままだったけれど、今日は桜島がきれいに見える、あんたも見なさい、とだけ言った。窓の外はまんべんなく白い曇り空だけが見えていた。わたしは、うん、と答えた。》