●お知らせ。「新潮」六月号に、岡田利規の戯曲集『エンジョイ・アワー・フリータイム』の書評、「リアルフィクションの希望」を書いています(http://www.shinchosha.co.jp/shincho/newest/)。
ウィリアム・リュプチャンスキーが亡くなったのか…。
柴崎友香ハルツームにわたしはいない」(「新潮」六月号)。現在のこの作家の作品はいくつかの系列へと分岐しているように思う。連載中の「ビリジアン」と「虹色と幸運」、最も新しい長編である「寝ても覚めても」の三つは、それぞれかなり異なる方向を向いていると思うし、さらに、それとはまた違った短編の系列もある。この作品は、短編「つばめの日」や「海沿いの道」などに近い系列の作品だと思われる。
様々な出来事や人やものが、主人公である《わたし》の空間上の移動や興味や関心の移動によって次々と作中に召還され(向こうからやってきて)、交錯し、関係づけられ、その関係づけによって展開が転がってゆく。その密度と速度から、ホークス等のスクリューボールコメディが想起されるほどだ。主人公は秒速で関心の対象を拡散的にポンポンと移してゆくし、文字数に対して込められた情報量が膨大なので、読む速度はゆっくりでも、読んでいる頭は高速で回転することを強いられる。この作品は「あらすじがない」のではなく、複数の線のダイアグラム的な絡み合いで出来ているので複雑過ぎて「あらすじが記述出来ない(想起出来ない)」のだ(例えば『赤ちゃん教育』がそうであるのと同様に)。そして、その出来事の連鎖と関係づけは、通常の時間-空間的な連続性の上で起こるだけではなく(スクリューボールコメディのようにアクションで関連しているのではなく)、主人公の想起や、iPhoneやカーナビなどの現代的な通信機器なども絡んで時空が捻れ、さらに複雑なものになる。異様なクリアーさで次々あらわれる出来事やものや人たちの、何と何とが関係づけられ、何と何とは関係づけられないのかを事前に予測することは困難だ。ここで、何かと何かとの「関係」は、事前に隠されてあるもの(世界の秘密や謎や真理のようなもの)が露わになるというような種類のものではなく、あくまで、主人公の空間的な移動と関心や視線、感情の移りゆきによって、主人公の意識や身体の上で交錯し、構成されることではじめて成立する「関係」だろう。つまり主人公の経験の内部で関係づけられ、構成されることによって、はじめてこの世界にあらわれる。だからそれは受動的な描写であるというよりも、身体と関心の移動によって「関係が創造される」様の描出なのだ。しかし、その関心の対象、関係づけられる様々な要素そのものは、あくまでも主人公の外側にあるものだ。主人公の能動性は、主人公の身体が、そこへとやってくる出来事やものたちを「関係として生起させる」ための一つの起点としてある、という点にのみあらわれる。
例えば、この主人公は自分の意志というものをまったく信用していないようにみえる。池袋のサンシャイン水族館で「友人の知り合い」の結婚パーティーに出ながら、以前に見た、すぐ近くの墓地にあるはずの欅の木を思い出し、それを見たいと強く願い、《塀が低ければ乗り越えられる》(パーティー用のスパンコールのワンピースを着ているのに !)とさえ思っているにもかかわらず、実際にはあっさりと別の友人の誘いにのって、誰だかよく分からない誰かの誕生日パーティーに行くために駅へ向かい電車に乗ってしまう(ここでは、欅への関心をそこに置き去りにして、関心と身体とが分離するかのようだ)。強く心に残っている欅がすぐ近くにあるのにそこには行かず、なんとなくその場の流れに乗って下北沢まで行き、どうでもいいようなピアスに坊主頭の男と出会い、そうしたいと思ったわけでもないのにタクシーで途中まで一緒に帰ることの方を選ぶのだ。「けい」という登場人物ならば、きっと将来、実際にテネリフェという島に行こうとするだろうが、おそらく《わたし》は、自分の意志でハルツームに行くということにはあまり興味がないし、行くこともない気がする。しかし、そのような、自分の意志を持たずに流れに乗ってゆくような行動によって、欅を見ることは出来ないにしても(しかし、偶然の誘いに乗って池袋まで行くことで、すぐ近くにある欅の存在をリアルに思い出すことが出来たのだ)、そのかわりに自宅の隣の駅にひらけた広い更地に行き当たることが出来る。《わたし》にとって重要なのはきっと、見たいと強く思う欅を実際に見に行くことよりも、思ってもみなかった空き地に行き当たってしまうことの方なのだ(と、同時に、欅の存在を意識した、という事実なのだ)。
存在と不在とをめぐる小説でもあるこの作品の主人公は、三つの異なる位相の身体をもっているように思う。一つは実際に行動し、知覚する身体。もう一つは、かつて経験したことを思い出す、その想起の内部にある身体(想起する身体ではなく、想起された場所のなかにいる身体、その場所に置き去りにしてきたような身体)。そしてもう一つ、まったく行ったことのない場所(とはいえ、「実在する」場所)のことを意識する時、その意識した場所に、存在しないけどちょっとだけ存在するような、点線で描かれるような(あるいは「ハルツームにわたしはいない」という形で否定的-反転的に存在するような)抽象的身体。三つめの身体は、iPhoneの世界の天気や航空写真や地図を表示するアプリケーションという小道具によってめざましく前景化するものだが、しかし、それなしでももともとそのような傾向があるからこそ成立しているように思われる(この作家の小説における携帯電話の重要性は、一つ目の身体と三つ目の身体とを橋渡しするという点にあるのかも)。この三つの身体は、ズレをもちながらも同時並立的に存在する。前景にはあくまで知覚する現在の身体がありつつも、この三つの位相の異なる身体によってそれぞれ経験される事柄-世界は同等の重さで常に同時に存在し、それらが、《わたし》という形でとりあえずの統一性を得ることのできる文の連なりのもとで複雑に交錯し、展開してゆく、というのがこの小説なのではないだろうか。
●関係ないけど、サンシャイン水族館で「けい」に話しかける消防士が超面白い。どうやってこういう人物を思いつくのかと思う。