●一昨日(12月2日)の日記で図で描いて考えたことをもう少し勝手にすすめて考えてみた(『ミシェル・セール』をもとにして勝手に図にして考えた)。
●「あるがままの多」の知覚としてあらわれるゲシュタルトは、以下のように考えられる。



ゲシュタルトとフレームの関係。多ゲシュタルト間の共−可能性としてフレームを考える。この時、フレームがゲシュタルトの配置をつくるとも言えるし、ゲシュタルトの配置がフレームをつくるとも言える。
(新たなフレームの出現は、既存のゲシュタルトに新たな位置=意味を付与するし、新たなゲシュタルトの出現は、既存のフレーム=配置の再編成を促す。)



●一つのゲシュタルトが複数のフレームを媒介して、多フレーム間のネットワークをつくる。
ゲシュタルトは一つの物・形であるが、それ自体多数の微小表象からなり、ネットワークと繋がっているので、決して固定的ではない。)



ゲシュタルトを媒体とするフレームのネットワーク化を、一つのゲシュタルトについてだけではなく、多対多の関係として図示すると以下のようになる。これを、フレームの側からみると、「複数のフレームの入れ子構造」となり、ゲシュタルトの側からみると、「多層フレームによるゲシュタルト間の関係の多重性(文脈の多層化)」となる。



●多対多としてのゲシュタルトとフレームの関係を、たとえば以下のように描くこともできる。こう描くと、「多層フレームによるゲシュタルト間の関係(文脈)の重ね描き」と、「ゲシュタルトによる複数のフレームのネットワーク化」の両方がみてとれる。
(例えば、ゲシュタルト4は一つのゲシュタルトであるが、フレームAのなかでもつ位置=意味とフレームBのなかでもつ位置=意味が違う。そしてこの両義的ゲシュタルトの存在によって、フレームAとBは相互作用的な関係をもつことができる。同様に、ゲシュタルト7は三つの異なるフレームに跨り三つの異なる位置=意味をもつが、それによって三つのフレームを関係づけている。)



●そしてこの関係は反転し得る。一つのゲシュタルトは既に多数の微小表象からなるので、それ自体がフレームとして作用することもあるし、また、多数のゲシュタルトを含む一つのフレームが、それ自体一つのゲシュタルトとして作用することもあるだろう。